ドイツとオスマン帝国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/20 09:20 UTC 版)
ベルリン会議以降の19世紀後半、オスマン帝国をめぐる列強の関係は変化した。ロシア皇帝はベルリン会議でのサン・ステファノ条約の修正を不服として三帝同盟を脱退し、ビスマルクの巧みな外交によって孤立させられていたフランスと徐々に接近する姿勢を見せた。ドイツはオーストリア・ハンガリーに接近し、1879年に2国間に同盟が結ばれた。またドイツはオスマン帝国に友好的であり、両国は親密な関係を築いた。ドイツはオスマン帝国の軍事と財政の制度改革に協力し、そのかわりにバグダード鉄道の敷設権と商業上の特権を認められ、帝国内の重要な経済市場に参入した。 このような傾向は以前のオスマン帝国にとって重要な同盟国であったイギリスとドイツを、オスマン帝国領内のさまざまな利権を巡って対立させることとなった。一方でイギリスはとくにエジプト以南のアフリカ分割問題を巡って対立していたフランスとは徐々に和解し、両者は1904年に英仏協商を結んで協調関係に入った。ロシアもイギリスに接近し、1907年に両国は英露協商を結び、英仏露の三国は三国協商と呼ばれる協調体制を形成した。
※この「ドイツとオスマン帝国」の解説は、「東方問題」の解説の一部です。
「ドイツとオスマン帝国」を含む「東方問題」の記事については、「東方問題」の概要を参照ください。
- ドイツとオスマン帝国のページへのリンク