海戦前夜
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ドールマン少将は2月25日、バウエアン島(ジャワ島東ジャワ州)に日本軍襲来との報を得て、機関故障を起こしていた米駆逐艦ポープ以外の全艦でスラバヤより出撃した。しかし、この報は事実ではあったものの日本軍はまだ進軍途中で、彼の出撃が早すぎたために会敵に至らず一旦ドールマン少将はスラバヤに帰投する。その後ドールマン少将は各国海軍指揮官を呼び出して作戦会議を行い、26日になって再び日本軍接近中との報を得て出撃するも、いまだ日本軍は当該海域に達しておらず、26日、27日と索敵行動を続けたものの日本軍は発見できなかった。第一護衛隊指揮官西村祥治少将(四水戦司令官)も第五戦隊に対しスラバヤ方面の索敵を依頼したが、哨戒艇3隻を発見しただけだった。しかし日本軍航空隊(第二空襲部隊指揮官竹中龍造少将)は重巡1、軽巡2隻を含む有力水上艦隊の存在を報告しており、西村司令官は第五戦隊に対水上艦戦闘に備えるよう要請した。 一方連合軍艦隊は日本艦隊との海戦は夜戦になると見て水上偵察機(水偵)を陸揚げして出撃していた。2月27日早朝、日本軍の空襲を受けるが、被害はなかった。だが連日の戦闘配置によって乗員の疲労も高まっていた。そこでドールマン少将は一旦補給のため、再びスラバヤに帰投することとして艦隊を帰投進路に向けた。ヘルフリッヒ長官は「航空攻撃にかかわらず、貴官は東方に向い敵を捜索、攻撃するものとす」と攻撃続行を命じたが、ドールマンは艦隊乗組員が限界を超えると返答して後退を続けた。 しかしその直後の2月27日11時50分、バリクパパン基地所属の日本軍偵察機が連合軍艦隊を発見、触接し日本軍艦隊にその位置を通報した。また同日、カーチスP-40戦闘機 32機を搭載してジャワ方面に急行していた水上機母艦ラングレーが一式陸上攻撃機の爆撃で大破、駆逐艦ホイップル (USS Whipple, DD-217) およびエドサル (USS Edsall, DD-219) の手によって自沈処理された。
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海戦前夜
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「パーミャチ・メルクーリヤ (防護巡洋艦)」の記事における「海戦前夜」の解説
1913年1月6日から船体のオーバーホールに入り、セヴァストーポリ港で行われた工事は1914年5月1日に完了した。この際、対水雷艇用のカネー式 50 口径 75 mm 砲が全廃され、カネー式 50 口径 75 mm 砲 16 門に武装が強化された。この 152 mm 砲の防楯は、写真で見る限りバルト艦隊の「ボガトィーリ」級に採用されたものとは別のタイプのようである。すなわち、バルト艦隊の「ボガトィーリ」級には「ジアーナ」級と同様の、砲尾部分まで延長された装甲防楯が採用されているように見えるが、黒海艦隊の「カグール」級には従来形式の短い防楯が採用されているように見える。 1914年は、ヨーロッパ中に戦争の臭いが立ち籠めていた。黒海艦隊での軍事訓練は、かつてないほど集中的で多岐にわるものとなった。4月29日には、「黒海艦隊船舶の分遣隊ごとの臨時配置」が宣言された。これまで、「パーミャチ・メルクーリヤ」と「カグール」は、水雷分艦隊と戦列艦戦隊という、異なる艦種から編成されるそれぞれの戦隊に随伴して活動することになっていたが、実際には戦隊からは独立して運用されることが多かった。そこで、この「臨時配置」で両艦は水雷分艦隊長直属の一ヶ巡洋艦半戦隊を編成することになった。その後、半戦隊には補助巡洋艦(正式には通報船(英語版))「アルマース」が加わった。巡洋艦戦隊長は、水雷分艦隊長である A・G・ポクローフスキイ(ロシア語版)海軍少将が兼任した。ポクローフスキイ海軍少将は、当初は黒海艦隊水雷分艦隊長として、海軍中将に昇格した1916年からは黒海艦隊司令官参謀長として「パーミャチ・メルクーリヤ」に乗艦した。 1914年7月28日付けで「パーミャチ・メルクーリヤ」の艦長には M・M・オストログラーツキイ(ウクライナ語版) 1 等佐官が任官した。「パーミャチ・メルクーリヤ」は、彼の指揮の下、世界大戦に臨むこととなる。
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海戦前夜
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1943年12月20日にソ連へ向かうJW55B船団がスコットランドのロッホ・ユー泊地を、12月22日に英本土へ戻るRA55A船団がムルマンスクを出航した。RA55A船団には船団内に駆逐艦2隻、コルベット4隻、さらに距離をおいて駆逐艦ミルンを旗艦として駆逐艦6隻が護衛につき、JW55B船団には船団内に駆逐艦2隻、コルベット3隻、そして距離を置いて駆逐艦オンズローを旗艦として駆逐艦8隻が護衛についた。さらに船団が通過する海域全体で行動し、間接的に護衛を行う目的で二個艦隊が出撃していた。R・L・バーネット中将が率いるフォース1は重巡洋艦ノーフォーク、軽巡洋艦ベルファスト、シェフィールドで構成されていた。本国艦隊司令長官ブルース・フレーザー大将が直率するフォース2はイギリスの各艦隊の中でも最強の兵力を誇り、戦艦デューク・オブ・ヨーク、軽巡洋艦ジャマイカ、駆逐艦4隻(サヴェージ、ソーマレス、スコーピオン、ストルド)で構成されていた。 12月22日1045時、気象観測をおこなっていたドイツ空軍機が偶然にJW55B船団を発見した。次いで12月23日1125時にも同船団を再発見する。しかしこれ以降天候は悪化、十分な偵察が困難になり始める。上述のように真冬の極地では砲撃戦に適した日照はほとんど望めず、気象条件は駆逐艦の行動を危ぶませるほどひどくなりつつあった。この状況下実戦部隊の最高指揮官である艦隊司令長官オットー・シュニーヴィント大将は慎重論に傾き、シャルンホルストは出撃させず、攻撃は駆逐艦隊のみで行うべきであると主張したが、12月25日デーニッツはバイ少将に対し、シャルンホルストを主力とした戦闘群全力による敵船団攻撃を命令した。作戦名はオストフロント(東部戦線)。同日1900時、シャルンホルストと駆逐艦Z29、Z30、Z33、Z34、Z38がアルタ・フィヨルドから出撃した。 シャルンホルストの出撃は26日明け方にはフレーザー大将の知るところとなった。これに対し、バイ少将はイギリス海軍の二艦隊について何ら知らされることはなかった。
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