連合規約の改正と合衆国憲法
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/03 21:17 UTC 版)
「連合規約」の記事における「連合規約の改正と合衆国憲法」の解説
1786年5月、サウスカロライナのチャールズ・ピンクニーは連合会議において連合規約の改訂を提案した。ピンクニーが推し進めようとした改訂は、国外および国内の通商に対して連合会議に支配力を与え、また連合会議が諸邦から資金を徴収する、というものであった。しかしながらこの提案は連合会議において合意が得られず、改訂には至らなかった。 連邦体制強化論者たちは、連合規約の改正をひとつひとつ諸邦に提議して同意を得るという方法に絶望し、特別の諸邦代表者会議を開催し、連邦体制の全面的変更を行うという方法を提起した。1786年9月、バージニア、メリーランド、および中部3邦の代表がメリーランドのアナポリスに集まり、通商問題の討議を行った(アナポリス会議)。だが通商問題は他の問題との関わりが深く、連邦体制全般の検討と分離できないという理由により、翌1787年5月にフィラデルフィアで全邦の代表者会議を開催して連邦体制の全面的検討を行うという提案を決議した。議長を務めたアレクサンダー・ハミルトンは1787年の連合会議でこれを提起し、同年2月21日に連合会議は「連合規約の改正のみを討議する」という条件付きで開催を承認した。 そして1787年5月25日から9月17日まで、ロードアイランドを除く12邦の代表が参加して、フィラデルフィア会議が開催された。議長にはジョージ・ワシントンが異議なく選出された。その後1787年9月17日に連合規約改定の最終案が採択され、連合会議に送られた。連合会議は9月28日にこれを受諾し、批准のため各邦に送られた。そして翌1788年6月21日、改定案は9邦の批准を獲得し、アメリカ合衆国憲法として発効に至った。その後1790年5月29日、13邦すべてが合衆国憲法を批准したことにより連合規約の効力は消滅し、その役割を終えた。
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