通商問題
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1989年、アメリカ合衆国通商代表部の報告書において、日本における貿易障壁(非関税障壁)としてTRONが挙げられる、という事件が起きた。 詳細は次の通りである。1989年4月12日にUSTRが発行した報告書 "1989 National Trade Estimate Report on Foreign Trade Barriers"(「外国貿易障壁報告書」(.mw-parser-output cite.citation{font-style:inherit}.mw-parser-output .citation q{quotes:"\"""\"""'""'"}.mw-parser-output .id-lock-free a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-free a{background:linear-gradient(transparent,transparent),url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/65/Lock-green.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-limited a,.mw-parser-output .id-lock-registration a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-limited a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-registration a{background:linear-gradient(transparent,transparent),url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d6/Lock-gray-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-subscription a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-subscription a{background:linear-gradient(transparent,transparent),url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/aa/Lock-red-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-subscription,.mw-parser-output .cs1-registration{color:#555}.mw-parser-output .cs1-subscription span,.mw-parser-output .cs1-registration span{border-bottom:1px dotted;cursor:help}.mw-parser-output .cs1-ws-icon a{background:linear-gradient(transparent,transparent),url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/4c/Wikisource-logo.svg")right 0.1em center/12px no-repeat}.mw-parser-output code.cs1-code{color:inherit;background:inherit;border:none;padding:inherit}.mw-parser-output .cs1-hidden-error{display:none;font-size:100%}.mw-parser-output .cs1-visible-error{font-size:100%}.mw-parser-output .cs1-maint{display:none;color:#33aa33;margin-left:0.3em}.mw-parser-output .cs1-format{font-size:95%}.mw-parser-output .cs1-kern-left,.mw-parser-output .cs1-kern-wl-left{padding-left:0.2em}.mw-parser-output .cs1-kern-right,.mw-parser-output .cs1-kern-wl-right{padding-right:0.2em}.mw-parser-output .citation .mw-selflink{font-weight:inherit}ISSN 0898-3887)1989年版)内の、日本の貿易障壁についての報告中、セクション7 "7. OTHER BARRIERS" において、「半導体」「光ファイバー」「航空宇宙」「自動車部品」「流通システム」「商慣行(Marketing Practice Restrictions)」「大店法」のようにサブセクションを設けて列挙されたうちのひとつがTRONであった。他が基本的に分野を挙げているのに比べて、特定のシステムの名指しは異様である。 報告では、いくつかの米国企業もトロン協会のメンバーではあるが、TRONベースのPCや通信機器を売る位置を占めている米国企業は無いこと、日本政府がTRONを支持していることにより日本のメーカーが有利になりうる、特に教育分野(前述のCECに言及)と通信分野(NTTのCTRON採用に言及)で既にそれは起きている、と指摘している。 さらに、教育分野ではTRONにより、米国のOS(具体的にMS-DOS、OS/2、UNIXを例示している)が巨大な新しい市場から排除されつつあるとし、長期的にはTRONは日本のエレクトロニクス分野の全市場に影響し得る、と分析している。報告の最後のパラグラフでは、既に1988年9月9日(以降)、米国から日本にこれらの件に関心を持っていることを伝えており、1989年3月にはNTTの件について詳しい要求仕様を示すよう交渉が行われ、日本政府を通してTRONについてさらなる情報を調査中であると締めくくっている。 トロン協会は5月にUSTR代表あてに文書で抗議し、TRONは外された。しかし同年6月、マスコミは「教育用パソコンにBTRON採用断念」と報道した。たとえば『日経コンピュータ』は「BTRONベースの教育用パソコン 標準化は事実上不可能に」と報じている。紆余曲折はあったものの、結局、CECの提唱したBTRONの導入は実施されず、学校教育に導入されたのは、PC-9801をはじめとするMS-DOSマシンであった。これを契機に、TRONプロジェクト、特にBTRONプロジェクトは失速期に入り、「失敗」などとレッテル貼りをする者などもあらわれるようになる。 この騒動の背景として、1990年代当時は、パソコン市場シェアの過半数を占めており、CECの選定において1988年当時、松下を筆頭とする他社全者連合(IBMをも含んでいた)を敵に回して反対していた日本電気や、MS-DOSを擁するマイクロソフトの名が囁かれていた。また、かねてからの日米貿易摩擦に加えての80年代の日米ハイテク摩擦、ジャパンバッシング、日本株式会社論、IBM産業スパイ事件、CACMの83年9月号の表紙イラストに代表される日本脅威論などが記憶に新しい時代であり、TRON自身もIEEE MicroがTRON特集を組んだり(87年4月など)米国で目立ったであろう要素もあった。 CECの選定取り消しについては、大下英治『孫正義 起業の若き獅子』によれば、かねてより自社の事業であるソフト流通業が儲かるような業界態勢作りに腐心していた孫正義により、TRONによって日本の産業がグローバルスタンダードから外れ世界に取り残されると煽って盛田昭夫から紹介された棚橋祐治(当時通産省機械情報産業局長)、林良造(当時同局情報処理振興課長)らと「TRON壊滅へのレールが敷かれはじめ」ていたところだったが、この機会にスーパー301条を楯にプロジェクトを潰してしまえ、という孫によるアドバイスにより、通産省は学校へのTRON導入を中止したという。同書の見出しには「TRON蔓延を水際で阻止」とある。 この件に関して、TRONプロジェクト側では異例の意見表示があった。パーソナルメディア社が編集・刊行しているTRONWARE誌の60号(1999年12月発行)p. 71において、編集部の署名で「TRONプロジェクトを阻んだ人」と題した記事で、前述の伝記を、(TRONを妨害した)「成果を誇る」本を出した人がいる、と紹介した。同記事では、孫がMSXに反対したこと、Unixを一旦は支持したようだったことなどを紹介し、また伝記中で紹介されている、孫、西、坂村が一堂に会したカンファレンスについて、坂村による、それはUnixの技術者のカンファレンスだったはずで自分も西も技術の話をしたが孫氏は商売の話をして場違いな感じだったと記憶している、といった証言を載せたりもしているが、全体としては、独自技術の芽を潰すことが正しいことか? とまとめている。 なお、1988年12月に、ソフトバンク(当時は(株)日本ソフトバンク)出版部(現ソフトバンククリエイティブ)より、『コミック版 トロン革命』( ISBN 4-89052-037-6 )という書籍が出版されている。
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通商問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 02:06 UTC 版)
イギリスの代表たちは、もっぱら貿易利権の扱いを重視していた。例えば彼らはフランスに、「ダンケルクの要塞を更地にし、港を塞ぎ、その水門を解体して二度と解体されない」よう要求するなどした。これはダンケルクが1本の潮流によって北海へ出ることができ、ドーバー海峡のイギリス海軍の巡視から逃れやすいという好条件ゆえに、フランス私掠船の主要な拠点となっていたためであった。ただこの要求は最終的に通らなかった。 もう一つイギリス政府が獲得した巨大利権が、アシエント・デ・ネグロス(黒人に関する契約)である。すなわちイギリスは、アメリカ大陸のスペイン植民地に黒人奴隷を供給する奴隷貿易の独占権をスペイン政府から認められたのである。このような契約が結ばれたのには、スペイン帝国自体があまり大西洋奴隷貿易そのものに関わろうとせず、奴隷供給を外国商人に委託するのを好んでいたという事情もあった。もともとアシエントの権利はフランスのブルボン家が保有していて、フランス商人が毎年5000人の奴隷をスペイン帝国に供給していた。さらにフェリペ5世を王位に据えてからは、フランスがこの契約をすべて支配していた。ユトレヒト条約によりイギリスがアシエントに関与できるようになってから、オランダのセファルディム・ユダヤ人の奴隷所有者は姿を消していき、イギリスでは排他的な契約を結べるとの期待から南海会社が設立された。イギリス政府は借金を減らすためにスペインとの貿易拡大を目指しており、そのためにはアシエントにかかわる権利を手に入れる必要があった。歴史家のG・M・トレヴェリアンによれば、1711年5月の時点でイギリスの国家財政はアシエントへの参与、すなわちスペイン領アメリカとの奴隷貿易の独占権を得ることを想定していて、講和条約によりそれをフランスから奪い取る計画を立てていた。実際にユトレヒト条約により、イギリス政府は30年間アシエントを結べる権利を獲得した。 このようにしてイギリスは、ユトレヒト条約により、ヨーロッパにおける最大の貿易国へと上り詰めた。
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