アラバマ (BB-8)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/14 15:42 UTC 版)
アラバマ Alabama |
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基本情報 | |
建造所 | ウィリアム・クランプ・アンド・サンズ |
運用者 | ![]() |
艦歴 | |
起工 | 1896年12月1日 |
進水 | 1898年5月18日 |
就役 | 1900年10月16日 |
除籍 | 1920年5月7日 |
その後 | 標的艦として使用後スクラップとして売却 |
要目 | |
排水量 | 11,565トン |
全長 | 114 m (374 ft 0 in) |
最大幅 | 22.1 m (72 ft 6 in) |
吃水 | 7.6 m (24 ft 11 in) |
速力 | 16ノット |
乗員 | 士官、兵員536名 |
兵装 | 13インチ砲4門 6インチ砲14門 6ポンド砲16門 1ポンド砲4門 18インチ魚雷発射管4門 |
アラバマ(USS Alabama, BB-8)は、アメリカ海軍の戦艦。イリノイ級戦艦の2番艦。艦名はアラバマ州にちなむ。その名を持つ艦としては2隻目。
艦歴
アラバマは1896年12月1日にペンシルベニア州フィラデルフィアのウィリアム・クランプ・アンド・サンズ社で起工し、1898年5月18日にメアリー・モーガン(ジョージア州選出上院議員ジョン・T・モーガンの娘)によって命名、進水、1900年10月16日に初代艦長ウィラード・H・ブラウンソン大佐の指揮下就役した。
就役後は北大西洋ステーションに配属されたが、アラバマは翌年初めまで部隊との活動を開始しなかった。12月13日までフィラデルフィアに留まり、続いてニューヨークへの短期巡航を行った。
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1918年11月11日に休戦協定が成立し、アラバマの新兵訓練は継続したが、その規模は縮小し始めた。1919年2月から3月の間、アラバマは冬季演習のため西インド諸島へ向かった。4月半ばにフィラデルフィアに帰還し、修理の後海軍兵学校生の夏季訓練巡航のためアナポリスに向かった。5月28日、29日にフィラデルフィアからアナポリスへの短期巡航を行った。6月9日、184名の士官候補生を乗せアナポリスを出航する。巡航の前半においてアラバマは西インド諸島を訪問し、パナマ運河を通過した。7月半ばにニューヨークおよびニューイングランド沿岸に向けて出航した。8月には南へ向かい、訓練海域での演習を行う。8月末にアナポリスで士官候補生を下艦させ、フィラデルフィアに帰還した。

フィラデルフィアで9ヶ月以上保管された後、アラバマは1920年5月7日に退役した。1921年9月15日にアラバマは標的艦として使用されるため陸軍省に移管され、海軍から除籍された。陸軍航空部の飛行機による爆弾投下実験がチェサピーク湾で行われ、アラバマは1921年9月27日に浅い海域で沈没した。1924年3月19日、アラバマの沈没した船体はスクラップとして売却された。
外部リンク
「アラバマ (BB-8)」の例文・使い方・用例・文例
- アラバマ州のある大学は、ジョージア州、テネシー州、ルイジアナ州などいくつかの州とレシプロシティ契約を結んでいます。これらの州の住人は、アラバマ州の住人と同じ低い額のレシプロシティ学費が認められます。
- すべての発端は、1955年12月1日、アラバマ州モントゴメリーで起こった事件であった。
- アラバマ州選出の議員.
- 移植に堪えることができなかったので、彼女はアラバマに戻った
- 通常、アラバマ州を含む米国の地域の
- アラバマ州・ジョージア州・フロリダ州に産するホリネズミ
- アラバマ族が話したマスコギ語族の言語
- 米国南東部の地域:サウスカロライナ、ジョージア、アラバマ、ミシシッピー、およびルイジアナ
- 海岸平野間の高原およびアパラチア山脈:ヴァージニア、カロライナの北部と南部の一部、ジョージアおよびアラバマ
- モバイル川のそばのアラバマの州都
- アラバマ州最大の都市
- テネシー川のアラバマ北部の町
- アラバマ北中部の産業の町
- アラバマ州北部の都市
- アラバマ州南西部のモービル湾に臨む港
- アラバマ中部のアラバマ川を臨む都市
- 西中央部アラバマ州の大学町
- アラバマ東部の都市
- アラバマとの境界近くのミシシッピー東部の町
- モンゴメリーの近くのクーサ川とタラポーサ川の合流点によって形成されるアラバマの川
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