空母部隊指揮官
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「チャールズ・A・パウナル」の記事における「空母部隊指揮官」の解説
1942年から1943年にかけて、日本への反撃進路としては2つの主要候補があり、候補の一つ、中部太平洋方面への進撃は海軍の米西戦争以来海軍が主要進撃路として主張していたものであり、ダグラス・マッカーサー陸軍大将らが主張する、ニューギニアからフィリピンへ帰還する主要進撃路とは真っ向から対立していた。統合参謀本部の裁定で、両案を折衷したような進撃路が策定されたが、海軍側はこの裁定を待たずして空母の大量整備に乗り出していた。これがエセックス級航空母艦やインディペンデンス級航空母艦を初めとする新型空母の数々であり、中部太平洋方面への進撃の主要戦力として活躍する手はずとなっていた。しばらくのちに第5艦隊と呼ばれるようになるこの戦力を率いるのは誰か、士官以上の人間の間では一大関心事であった。ソロモン諸島の戦いで日本軍といまだ相対峙していた南太平洋部隊(第3艦隊)司令官のウィリアム・ハルゼー大将(アナポリス1904年組)は戦線の重要性から候補から除外されているという推測があったものの、意中の候補は合衆国艦隊司令長官兼作戦部長アーネスト・キング大将(アナポリス1901年組)と太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツ大将(アナポリス1905年組)しか知りえなかった。 航空パイロット出身の士官は、パイロット出身者がその職に任命されると期待していた節があった。当時、パイロット出身の士官でもっとも高位だったのは、太平洋航空部隊司令官のジョン・ヘンリー・タワーズ中将(アナポリス1906年組)であった。タワーズはハリー・E・ヤーネル大将(アナポリス1897年組)との面談で空母部隊を率いる人物の理想像として、次のように述べていた。 この有力な部隊を活用できる能力と創造力の程度によって、太平洋における合理的かつ迅速な勝利か、長期消耗戦か、の差が生じるだろう。空母航空作戦は高度に専門的であり、徹底的にその訓練を受けた士官によって実施されるべきである。 — ジョン・ヘンリー・タワーズ、谷光太郎『米軍提督と太平洋戦争』410ページ 要約すれば、タワーズは「自分にその職を宛てろ」と主張しているに等しかったが、キングやニミッツから煙たがられている身ゆえ、タワーズの第5艦隊司令長官や指揮下の空母任務部隊司令官への就任は問題外だった。ニミッツは、当時自分の参謀長だったスプルーアンスにも相談していなかったが、5月30日付で中将への昇進の内定を出させて司令長官の座を事実上確約させていた。8月5日、スプルーアンスの第5艦隊司令長官への就任が公表され、目下の問題は指揮下の空母任務部隊司令官は誰かということになった。翌8月6日、ニミッツは空母任務部隊司令官に、パウナルをあてることを公表した。スプルーアンスがパイロット出身の士官についてあまり面識がなく、適当な人物を挙げようがなかったということもあってニミッツが人選にあたった。人選の経緯はともかく、はっきりしているのは、ニミッツがパウナルを航空の「経験の深い」人物とみなしていた点である。ともかく、第5艦隊の顔ぶれはおぼろげながら出来つつあった。 パウナルの空母任務部隊は、さしあたって第15任務部隊と呼称され、1943年8月23日に空母「ヨークタウン」(USS Yorktown, CV-10)に将旗をひるがえして「エセックス」(USS Essex, CV-9)、「インディペンデンス」(USS Independence, CVL-22)および戦艦「インディアナ」(USS Indiana, BB-58)など新鋭艦を率いて真珠湾を出撃し、9月1日早朝に南鳥島を爆撃して初陣とした。続いて9月18日から19日にかけては「レキシントン」(USS Lexington, CV-16)、「プリンストン」(USS Princeton, CVL-23)および「ベロー・ウッド」(USS Belleau Wood, CVL-24)にタラワを爆撃させた。タラワへの攻撃は、ギルバート諸島方面からの日本軍機の撤収を促し、資料が不足していたギルバート方面の写真偵察を成功させて、来るべき攻略作戦によい資料を与える結果をもたらした。やがてアルフレッド・E・モントゴメリー少将(アナポリス1912年組)をトップに第14任務部隊も編成され、第14任務部隊は10月5日から7日にかけてウェーク島を爆撃した。一連の攻撃に日本海軍は振り回され、いずれの攻撃に対しても第三艦隊(小沢治三郎中将)と第二艦隊(栗田健男中将)が出撃したものの燃料を消費しただけで会敵できず、阿川弘之が言うところの「連合艦隊の大散歩と称する空振り事件」とはこのことである。また、この3つの攻撃を通じて、海軍は空母任務部隊の運用方法について陣形や戦術などの改善を重ねていった。大きく改善された点は、これまで1隻の空母ごとに任務群を編成して行動していたが、第15任務部隊および第14任務部隊では、初めて複数の空母で任務群を編成した。空母任務部隊は徐々にではあるが経験を積み、また規模も大きくなっていった。 11月に入り、ギルバート諸島攻略のガルヴァニック作戦が差し迫ると、スプルーアンスは第15、第14任務部隊を第50任務部隊として再編成し、下に4つの任務群をぶら下げる編成とした。パウナルは第50.1任務群を直接率い、以下アーサー・W・ラドフォード少将(アナポリス1916年組)、モントゴメリー、そしてテッド・シャーマンが残りの任務群を率いた。任務群は先鋒担当、北部担当、南部担当、後方担当と任務が分担され、さらにウィリス・A・リー少将(アナポリス1908年組)率いる戦艦部隊も指揮下につけられた。モントゴメリーとテッド・シャーマンの任務群がハルゼーの要請によるラバウル空襲のため、一時的にギルバート方面から離れたが、攻撃期日までには復帰した。11月19日、第50任務部隊の艦載機はギルバートおよびマーシャル諸島各地を爆撃し、その成果にはパウナルも一定の満足を示した。作戦自体は第一次世界大戦並みの古い戦闘方法とタラワでの頑強な抵抗で遅い歩みで進み、そのため11月20日の夜には「インディペンデンス」が日本機の夜間雷撃で損傷した(第一次ギルバート諸島沖航空戦)。しかし、多大な損害を出しながらも力押しに押した結果、作戦の目的は達せられた。 第50任務部隊は引き続きマーシャル諸島近海を遊弋し、来るべき攻略作戦に備えてクェゼリン環礁を攻撃することとなった。この時点ではマーシャル方面の偵察写真も航空圧力も十分ではなく、第50任務部隊のみが唯一の航空兵力だった。パウナルは少ない資料ながらもクェゼリンおよびウォッジェ両環礁への攻撃を決し、急速に目標に接近していった。攻撃は12月5日に行われ、クェゼリン環礁内に在泊中の軽巡洋艦「長良」および「五十鈴」をはじめとする艦船は大なり小なりを損害を受けた。クェゼリンへの攻撃が終わると、パウナルは午後には「ヨークタウン」の攻撃隊にウォッジェを攻撃させ、全ての攻撃が終わるや否や東方への移動を命じた。夜に入って日本機の反撃により「レキシントン」が損傷したが(マーシャル諸島沖航空戦)、第50任務部隊はこれ以上の被害を受けることなく、真珠湾やエファテ島に帰投した。 しかし、パウナルの戦闘経験はここで終わりを迎え、二度と空母任務部隊を指揮することはなかった。
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