空母部隊指揮官とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 空母部隊指揮官の意味・解説 

空母部隊指揮官

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/28 04:46 UTC 版)

チャールズ・A・パウナル」の記事における「空母部隊指揮官」の解説

1942年から1943年にかけて、日本への反撃進路として2つの主要候補があり、候補一つ中部太平洋方面への進撃海軍米西戦争以来海軍が主要進撃路として主張していたものであり、ダグラス・マッカーサー陸軍大将らが主張するニューギニアからフィリピン帰還する主要進撃路とは真っ向から対立していた。統合参謀本部裁定で、両案を折衷したような進撃路が策定されたが、海軍側はこの裁定待たずして空母大量整備乗り出していた。これがエセックス級航空母艦インディペンデンス級航空母艦初めとする新型空母数々であり、中部太平洋方面への進撃の主要戦力として活躍する手はずとなっていた。しばらくのちに第5艦隊呼ばれるうになるこの戦力率いるのは誰か士官上の人間の間では一大関心事であったソロモン諸島の戦い日本軍といまだ相対峙していた南太平洋部隊第3艦隊司令官ウィリアム・ハルゼー大将アナポリス1904年組)は戦線重要性から候補から除外されているという推測があったものの、意中候補合衆国艦隊司令長官作戦部アーネスト・キング大将アナポリス1901年組)と太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツ大将アナポリス1905年組)しか知りえなかった。 航空パイロット出身士官は、パイロット出身者がその職に任命される期待していた節があった。当時パイロット出身士官でもっとも高位だったのは、太平洋航空部隊司令官ジョン・ヘンリー・タワーズ中将アナポリス1906年組)であったタワーズハリー・E・ヤーネル大将アナポリス1897年組)との面談空母部隊率い人物の理想像として、次のように述べていた。 この有力な部隊活用できる能力創造力程度によって、太平洋における合理的かつ迅速な勝利か、長期消耗戦か、の差が生じるだろう。空母航空作戦は高度に専門的であり、徹底的にその訓練受けた士官によって実施されるべきである。 — ジョン・ヘンリー・タワーズ谷光太郎米軍提督太平洋戦争410ページ 要約すればタワーズは「自分にその職を宛てろ」と主張しているに等しかったが、キングニミッツから煙たがられている身ゆえ、タワーズ第5艦隊司令長官指揮下の空母任務部隊司令官への就任問題外だった。ニミッツは、当時自分参謀長だったスプルーアンスにも相談していなかったが、5月30日付で中将への昇進内定を出させて司令長官の座を事実上確約させていた。8月5日スプルーアンス第5艦隊司令長官への就任公表され目下問題指揮下の空母任務部隊司令官誰かということになった。翌8月6日ニミッツ空母任務部隊司令官に、パウナルをあてることを公表したスプルーアンスパイロット出身士官についてあまり面識がなく、適当な人物挙げようがなかったということもあってニミッツ人選あたった人選経緯はともかく、はっきりしているのは、ニミッツがパウナルを航空の「経験の深い」人物みなしていた点である。ともかく、第5艦隊顔ぶれおぼろげながら出来つつあった。 パウナルの空母任務部隊は、さしあたって15任務部隊呼称され、1943年8月23日空母ヨークタウン」(USS Yorktown, CV-10)に将旗ひるがえしてエセックス」(USS Essex, CV-9)、「インディペンデンス」(USS Independence, CVL-22)および戦艦インディアナ」(USS Indiana, BB-58)など新鋭艦を率いて真珠湾出撃し、9月1日早朝南鳥島爆撃して初陣とした。続いて9月18日から19日にかけては「レキシントン」(USS Lexington, CV-16)、「プリンストン」(USS Princeton, CVL-23)および「ベロー・ウッド」(USS Belleau Wood, CVL-24)にタラワ爆撃させた。タラワへの攻撃は、ギルバート諸島方面からの日本軍機の撤収促し資料不足していたギルバート方面写真偵察成功させて、来るべき攻略作戦によい資料与え結果もたらした。やがてアルフレッド・E・モントゴメリー少将アナポリス1912年組)をトップに第14任務部隊編成され、第14任務部隊10月5日から7日にかけてウェーク島爆撃した一連の攻撃日本海軍振り回されいずれの攻撃に対して第三艦隊小沢治三郎中将)と第二艦隊栗田健男中将)が出撃したもの燃料消費しただけで会敵できず、阿川弘之が言うところの「連合艦隊の大散歩称する空振り事件」とはこのことである。また、この3つの攻撃通じて海軍空母任務部隊運用方法について陣形戦術などの改善重ねていった。大きく改善された点は、これまで1隻の空母ごとに任務群を編成して行動していたが、第15任務部隊および第14任務部隊では、初め複数空母任務群を編成した空母任務部隊徐々にではあるが経験積み、また規模大きくなっていった11月入りギルバート諸島攻略ガルヴァニック作戦差し迫ると、スプルーアンスは第15、第14任務部隊を第50任務部隊として再編成し、下に4つ任務群をぶら下げ編成とした。パウナルは第50.1任務群を直接率い、以下アーサー・W・ラドフォード少将アナポリス1916年組)、モントゴメリー、そしてテッド・シャーマンが残り任務群を率いた任務群は先鋒担当北部担当南部担当後方担当任務分担され、さらにウィリス・A・リー少将アナポリス1908年組)率い戦艦部隊指揮につけられた。モントゴメリーとテッド・シャーマンの任務群がハルゼー要請によるラバウル空襲のため、一時的にギルバート方面から離れたが、攻撃期日までには復帰した11月19日、第50任務部隊艦載機ギルバートおよびマーシャル諸島各地爆撃し、その成果にはパウナルも一定の満足を示した作戦自体第一次世界大戦並みの古い戦闘方法タラワでの頑強な抵抗で遅い歩み進み、そのため11月20日夜には「インディペンデンス」が日本機の夜間雷撃損傷した第一次ギルバート諸島沖航空戦)。しかし、多大な損害出しながらも力押し押した結果作戦目的達せられた。 第50任務部隊引き続きマーシャル諸島近海遊弋し来るべき攻略作戦備えてクェゼリン環礁攻撃することとなった。この時点ではマーシャル方面偵察写真航空圧力も十分ではなく、第50任務部隊のみが唯一の航空兵力だった。パウナルは少な資料ながらもクェゼリンおよびウォッジェ両環礁への攻撃決し急速に目標接近していった。攻撃12月5日行われクェゼリン環礁内に在泊中の軽巡洋艦長良」および「五十鈴」をはじめとする艦船大なり小なり損害受けたクェゼリンへの攻撃が終わると、パウナルは午後には「ヨークタウン」の攻撃隊にウォッジェを攻撃させ、全ての攻撃が終わるや否や東方への移動命じた夜に入って日本機の反撃により「レキシントン」が損傷したが(マーシャル諸島沖航空戦)、第50任務部隊これ以上被害を受けることなく真珠湾エファテ島帰投した。 しかし、パウナルの戦闘経験はここで終わり迎え二度と空母任務部隊指揮することはなかった。

※この「空母部隊指揮官」の解説は、「チャールズ・A・パウナル」の解説の一部です。
「空母部隊指揮官」を含む「チャールズ・A・パウナル」の記事については、「チャールズ・A・パウナル」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「空母部隊指揮官」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「空母部隊指揮官」の関連用語

空母部隊指揮官のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



空母部隊指揮官のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのチャールズ・A・パウナル (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS