陸軍大学校に関して
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 23:05 UTC 版)
歩兵第65連隊から一人も陸大に入校した者がおらず不名誉だとして、陸士成績が最優秀だったために石原を受験させることが本人の意思とは関係なく決められた。石原は一日中部隊勤務に励んでおり、試験勉強期間に入ってからも勉強できなかった。5日間の試験期間中も試験の解答を提出して、受験会場となった駐屯地の部隊の訓練を見学した。連隊からは石原だけが合格した。 陸大入試の口頭試問で「機関銃の有効な使用法」を聞かれ、「飛行機に装備して敵の縦隊を射撃する」と解答した。更にその詳細については黒板に図を書いて「酔っぱらいが歩きながら小便をするように連続射撃する」と答えた@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}当時、機関銃を飛行機に装備する着想はまだなかった[要出典]。 陸大では他兵科の運用についても学習するため夏休みには他兵科部隊勤務が実施された。その一環で砲車を車庫から出してこれを編成して行軍し、陣地に侵入するために砲列で射撃し、また車庫に収めるまでの行動を一人ずつ試験された。学生は複雑な号令で指揮することになるが、最後の番であった石原は指揮官の定位置について指揮刀を抜刀し、「いつも通りにやれ」と命令した。 陸大学生時代は成績は、2位であった。これについては冬でも薄汚れた夏服を着用する石原を天皇の前で講演させることに抵抗があったという説や、石原の講演内容について大学の注文を石原が拒否したためという説、朝敵であった庄内藩出身であったためという説がある。
※この「陸軍大学校に関して」の解説は、「石原莞爾」の解説の一部です。
「陸軍大学校に関して」を含む「石原莞爾」の記事については、「石原莞爾」の概要を参照ください。
- 陸軍大学校に関してのページへのリンク