陸軍大臣事件(陸相候補問題)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/30 05:10 UTC 版)
「福田雅太郎」の記事における「陸軍大臣事件(陸相候補問題)」の解説
山縣有朋亡き後、立場の違いによる意見の対立はあったものの、田中義一は長州閥の影響力を背景に上原閥内で大きな発言力を有していた。さながら、かつての山縣と上原勇作の関係に酷似しており、それを踏襲して上原は上原閥のNo.2である田中や長州閥に配慮した人事を行った。参謀総長に田中と同期の河合操を、教育総監に同期で長州閥の大庭二郎を据え、次の陸軍大臣に田中の親友で上原閥の福田を推挙した。しかし、田中はこれを造反の好機と見た。1924年1月、「福田雅太郎、尾野実信、宇垣一成の順で推薦します。」と上原に告げ、齟齬がないことで上原を油断させた。一方で福田の脛に傷(甘粕事件)があるのを利用し、清浦奎吾、河合、大庭を説得して自身の腹心である宇垣を陸相に就けることに成功したのである。この時、逆の順番で清浦に推薦したとも言われている。また、田中は研究会を介して清浦に圧力もかけている。さらに三長官一致の原則(前任者が推薦し、三長官の同意と軍事参議官(会議)の了解を得て候補者とする)を導入し、上原の権力を削ごうとした。これ以後、上原閥と長州閥(田中閥)の抗争が始まることとなった。福田は親友に裏切られ、そのまま予備役入りすることになってしまったのである。1925年4月8日、軍事参議官会議において田中の予備役入りを審議。この審議は田中を予備役入りさせたい福田らの要望だけでなく、田中本人が望んだもの(発議は指示を受けた宇垣によるもの)であった。当時の参議官は山梨半造、大庭以外は上原閥もしくは準上原閥であったため、田中の予備役入りは即日決定された。田中は三浦梧楼の支援を受けて政界入りの準備を完了しており、翌日陸軍を退役して政友会総裁となる。「現役の身として政友会総裁の噂を立てられた以上、それだけですでに現役におれぬ。」と田中は新聞記者一同の前で小芝居をして見せている。陸軍機密費横領問題が事実であれば、田中は陸相時代から既に政界入りを計画していたことになり、予備役入りは望むところで、陸軍への影響力保持のため宇垣を陸相に据えたのである。しかし、その後の上原閥との敵対、宇垣の離反、長州閥の駆逐による陸軍への影響力の低下が遠因で総理大臣を辞職することになったことは皮肉と言わざるを得ない。
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