陸軍委託生からソ連抑留へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/03/08 14:20 UTC 版)
1944年 陸軍委託性として東京第一陸軍造兵廠大宮製造所(現在の自衛隊大宮駐屯地)にて光学レンズ製造に従事した。東京帝大や東工大の委託生と寝食を共にして、意気投合した。 1944年 10月、陸軍兵器学校(相模原市淵野辺)に入学。肉体を極限まで追い込む2ヶ月の厳しい鍛錬の後、陸軍技術中尉に任官し尉官学生隊に編入され、真冬の東富士演習場で長期訓練が続いた。 1945年 6月、終戦直前になって釜山経由で満州国四平街(現在の吉林省四平市)の陸軍燃料廠関東軍満州238部隊に陸軍技術中尉として派遣された。 1945年 赴任後2ヶ月で満州に進駐してきたソ連軍の支配下に入る。10月に満州国の首都だった新京大同学院での拘留を経て、11月下旬には千数百名の将校と共に黒河で列車ごとアムール川を渡河してシベリアの町ブラゴヴェシチェンスクへ。そしてウラル山脈を越えてタンボフ州マルシャンスクに到着したのは酷寒の冬が迫る年末のことだった。1946年にはウラル山脈の南端のチェリャビンスク収容所へ。1947年にはタンボフ州ドルムストロイで道路構築作業、タンボフ州カガノウイッチなどでも強制労に従事した。ソ連ではドイツとの戦争で1000万人以上の戦死者を出し、若い男が不足して女の国になっていた。ソ連は多民族国家で人種的偏見が微塵も感じられなかった。その結果共に労働した地元の娘たちと親しくなっていたので、帰国の報を受けた時には地元の娘や親に残ってほしいと言われるほどだった。
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