陸軍少佐任官
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慶応4年1月(1868年2月)、報国隊の漢学助教となるが、11月(同年12月)には藩命により、伏見御親兵兵営に入営してフランス式訓練法を学んだ。これは、従兄弟であり報国隊隊長であった御堀耕助が、乃木源三に対し、学者となるか軍人となるか意思を明確にせよと迫り、乃木が軍人の道を選んだことから、御堀が周旋した結果発令されたという。 明治2年7月(1869年8月)、京都河東御親兵練武掛となり、次いで、明治3年1月4日(1870年2月4日)、豊浦藩(旧長府藩)の陸軍練兵教官として、馬廻格100石を給された。 そして、明治4年11月23日(1872年1月3日)、黒田清隆の推挙を受けて大日本帝国陸軍の少佐に任官し、東京鎮台第2分営に属した。当時22歳の乃木源三が少佐に任じられたのは異例の大抜擢であった。乃木は少佐任官を喜び、後日、少佐任官の日は「生涯何より愉快だった日」であると述べている。 明治4年12月(1872年1月)、正七位に叙された乃木源三は、名を希典と改めた。その後、東京鎮台第3分営大弐心得および名古屋鎮台大弐を歴任し、明治6年(1873年)3月、越前護法大一揆鎮圧に出動する。同年明治6年6月25日には従六位に叙される。 明治7年(1874年)5月12日、乃木は家事上の理由から辞表を提出して4か月間の休職に入るが、9月10日には陸軍卿伝令使となった。この職は、陸軍卿(当時は山縣有朋)の秘書官または副官といった役割であった。なお、この時期の乃木は、まっすぐ帰宅することはほとんどなく、夜ごと遊興にふけり、山縣から説諭を受けるほどだった。
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