軍医任官
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1891年(明治24年)6月見習い軍医となり、11月陸軍三等軍医(少尉相当)に任じられ第一師団付きとなり、1892年(明治25年)陸軍軍医学校に入学を命じられて主に衛生学を専攻した。軍医学校入学の翌年森林太郎が校長心得として、岡田国太郎が細菌学担当教官兼校長副官として着任した。1895年(明治28年)日清戦争勃発に際し北白川宮能久親王机下の第四師団の属し山東半島出兵に従軍し、戦争終結後北白川宮能久親王近衛師団長転任と共に同師団付きとして新たに日本領となった台湾の征討(乙未戦争)に従軍した。この時台湾総督府陸軍局軍医部長には森林太郎が就任したが、台湾に派遣された軍内部で脚気が大流行したのに対し有効な手段が採られず、軍医部長は翌年土岐頼徳に交代した。同1896年(明治29年)軍医学校学校付きとなる。
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軍医任官
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1881年(明治14年)7月、東京陸軍病院治療課僚に配属する。その後、東京陸軍病院、陸軍大学校、医務局副課員、隊付勤務を経て1884年(明治17年)に軍医本部に入り、徴兵業務に従事する。また橋本綱常軍医総監の命令で陸軍衛生部諸制度を翻訳する。 1885年(明治18年)11月、陸軍大学校の参謀旅行に従属してクレメンス・メッケルから近代戦の指導を受け、同校衛生学教官になる。
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