六郷政鑑とは? わかりやすく解説

六郷政鑑

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/07/13 00:26 UTC 版)

 
六郷政鑑
六郷政鑑
時代 江戸時代末期 - 明治時代
生誕 嘉永元年10月3日1848年10月29日
死没 明治40年(1907年7月23日
改名 鑑丸・長五郎(幼名)、政鑑
戒名 政亮院大義照鑑
墓所 秋田県由利本荘市出戸町の永泉寺
官位 従五位下兵庫頭従三位子爵
幕府 江戸幕府
主君 徳川家茂慶喜明治天皇
出羽本荘藩
氏族 六郷氏
父母 父:六郷政殷、母:岡部長和の養女・賀子
岡部長寛の養女・武子
政賢、賀子(田中国太郎妻)
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六郷 政鑑(ろくごう まさかね/まさあきら[1])は、江戸時代末期の大名出羽国本荘藩の第11代(最後)の藩主。官位従五位下兵庫頭。維新後、知藩事子爵

生涯

嘉永元年(1848年)10月3日、第10代藩主・六郷政殷の長男として誕生した。文久元年(1861年)6月5日、政殷の死去により家督を相続した。文久2年(1862年)12月1日、第14代将軍徳川家茂に拝謁した。同年12月16日、従五位下・兵庫頭に叙任する。

慶応2年(1866年)4月15日、江戸の警備を命じられる。慶応4年(1868年)、一時的に奥羽越列藩同盟に参加したものの、脱退した。同年7月、新政府に与して、幕府方の庄内藩と戦うことになった。しかし、そもそも兵数に劣り武器も旧式などであったため、庄内藩の軍勢に敗れ、8月6日には本荘城に火を放って敗走した。政鑑らは久保田藩に避難した[2]。同年9月11日、奥羽鎮撫総督府から見舞金3,000両を賜る。同年9月下旬、明治政府の援軍によって反撃に転じ、本荘城を奪回した。明治2年(1869年)6月12日、戊辰戦争での功績を賞されて、永世1万石を賜った。

明治2年(1869年)6月22日、版籍奉還に伴い知藩事に就任した。明治4年(1871年)7月15日、廃藩置県により知藩事を解任された。同年8月22日、東京に移る。明治17年(1884年)、子爵となる。晩年は故郷の本荘で過ごし、明治40年(1907年)7月23日、卒去。享年60。

家族

父母

子女

  • 六郷政賢(長男)
  • 六郷賀子 - 田中国太郎の妻、生母は武子(正妻)

脚注

  1. ^ 大名の花押”. 国立公文書館. 2014年5月9日閲覧。
  2. ^ 新庄藩も同じような目に遭い逃走し、同じく久保田藩が庇護した。
日本の爵位
先代
叙爵
子爵
本荘六郷家初代
1884年 - 1907年
次代
六郷政賢




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