岡部長発
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岡部長発肖像(泉光寺所蔵)
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| 時代 | 江戸時代後期 |
| 生誕 | 天保5年9月21日(1834年10月23日) |
| 死没 | 安政2年2月14日(1855年3月31日)[1] |
| 改名 | 武之丞、弥次郎、長発 |
| 墓所 | 大阪府岸和田市の泉光寺 |
| 官位 | 従五位下美濃守 |
| 幕府 | 江戸幕府 |
| 主君 | 徳川家慶→家定 |
| 藩 | 和泉岸和田藩主 |
| 氏族 | 岡部氏 |
| 父母 | 父:岡部長慎、母:側室 養父:岡部長和 |
| 兄弟 | 長和、長寛、長発、池田定保正室、松浦曜正室、賀子ら |
| 妻 | 正室:鳥居忠挙の娘 |
| 子 | 長職、武子 養女:楠子 |
岡部 長発(おかべ ながゆき)は、江戸時代後期の大名。和泉国岸和田藩の第11代藩主。官位は従五位下美濃守。岸和田藩岡部家12代。
略歴
第9代藩主・岡部長慎の6男として江戸にて誕生。幼名は武之丞、弥次郎。母は側室と言われている。
先代藩主で兄の長和には男児が2人いたが、いずれも早世したため、嘉永2年(1849年)12月10日に兄の養嗣子となり、嘉永3年(1850年)の兄の死去により家督を継いだ。日光廟の修理、ロシアのエフィム・プチャーチンの軍艦であるディアナ号の岸和田来航に備えるなど、若年ながら藩政に尽力したが、安政2年(1855年)2月14日に22歳で死去した。長男の長哉(長職)があったが幼年だったため、家督は兄の長寛が継いだ。
系譜
脚注
- ^ 『泉佐野市史』泉佐野市、1958年、p.190。
固有名詞の分類
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