戊辰戦中の奔走
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/11 04:35 UTC 版)
慶応3年(1867年)10月、父の隠居にともない家督を継承。同月、将軍・徳川慶喜が大政奉還を行い、幕府の支配体制が崩壊すると、米沢藩は今後の方策を巡って混乱。同年末の小御所会議で徳川慶喜の辞官納地が決定されると、旧幕府側の兵が激昂。米沢藩も至急藩兵を大坂へ上らせるが、その途上、慶応4年(1868年)正月の鳥羽・伏見の戦いにおける徳川軍の敗走を聞くや、藩主・斉憲が慌てて反転し帰国するという有様であった。戊辰戦争開始に伴い、新政府からの上京命令に応ずるため、奉行・千坂高雅が200人の藩兵を率いて上京することとなり、周旋方の宮島も京都情報収集のため上洛を命じられた。しかし2月後半に入京した際には、すでに新政府は会津征討の方針を固めていた。宮島らは仙台藩の京都詰・菅原龍吉と相談して、新政府を牛耳る薩摩藩の非を鳴らそうとし、薩摩藩主導で計画されていた明治天皇の大坂親征(大坂遷都を念頭においていた)に反対する建白を小島龍三郎(後の雲井龍雄)に起草させた。しかし宮島はこれら在京米沢藩幹部の動きとは別に、会津藩の謝罪をもって降伏させることで戦争を回避する方策を探り、新政府指導者三条実美や木戸孝允らとの話し合いを求めて京・大阪間を奔走。閏4月、長州藩の広沢真臣と面会して好感触を得た後、帰国する。
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