戊辰戦争から現代へ
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「慈恩寺 (寒河江市)」の記事における「戊辰戦争から現代へ」の解説
慶応4年/明治元年(1868年)1月に戊辰戦争が勃発すると、2月頃から佐幕派の庄内軍が寒河江に駐屯するようになる。しかし、3月に奥羽鎮撫総督及び新政府軍が仙台へ入ると庄内軍はいったん引き揚げ、4月には仙台藩を主力とする官軍が入る。慈恩寺では天童に宿泊する副総督・澤為量に見舞いを出して様子をうかがっている。4月25日から26日にかけて、庄内軍千余名が慈恩寺に宿泊し官軍を牽制していたが、閏4月4日庄内軍は最上川を越えて天童に攻めかかり230戸余を焼き討ちした後に庄内へ撤退した。8月1日、米沢・上山・山形・天童の各藩が官軍となり、慈恩寺に砦を築きたいと地所借りを申し出、日和田(現:寒河江市大字日和田)の楯に砦を築いた。9月20日、寒河江に駐屯する庄内軍・桑名軍と官軍が戦闘に及び、庄内軍から慈恩寺を本拠地として抗戦すると申し出があったが、結局慈恩寺は戦火に巻き込まれず、庄内・桑名軍は庄内へ撤退した。なお薩兵隊を率いた西郷隆盛・黒田清隆は白岩から慈恩寺を通って新庄方面へ進軍した。 明治元年(1868年)に神仏分離令が出され、明治4年(1871年)には寺社領の返上を求める上知令が出された。また明治5年(1872年)に修験禁止令が出されて慈恩寺修験の諸行事は行われなくなり、一山は困窮の極みに達する。困窮した坊は帰農し、神仏習合の典型であった修験は姿を消すことになった。しかし、明治14年(1881年)に「行者会」を結成し、年1回当番宅へ集まり山伏の服装をしてお経を唱え山伏料理を出して修験の遺風を今日に伝えている。 明治43年(1910年)法令改正により、華蔵院は智山派総本山智積院の本寺、宝蔵院も智積院の末寺、最上院は比叡山延暦寺の末寺となる。同年、陸軍大将乃木希典が拝観し、招魂碑を揮毫した。三重塔脇に石碑が残る。昭和27年(1952年)、慈恩寺は天台真言両宗慈恩寺派として独立することになり、昭和47年(1972年)に慈恩宗大本山慈恩寺として独立した。各院坊の住職は、真言方は宝蔵院・華蔵院で修行し位階を取得、天台方は最上院で修行して山寺立石寺で伝法灌頂(でんぽうかんじょう)を受けて僧侶としての位階を取得する。昭和35年(1960年)、明治5年以来88年間途絶えていた柴燈護摩会(さいとうごまえ)が復活した。以前の作法を元にしながら、宝寿院流に則った方法で行っている。 昭和54年(1979年)の文化庁文化財主任調査官鷲塚泰光の来訪を端緒として悉皆調査が行われ、享保10年(1725年)の時点で既に失われたと思われていた平安時代の仏像について、発見・文化財指定に至った。平成4年(1992年)に山形県で行われた「べにばな国体」に合わせて秘仏開帳が行われた。平成22年(2010年)、慈恩寺国史跡指定推進委員会を設置して慈恩寺文化財の基礎調査を開始する。平成23年(2011年)から平成25年(2013年)にかけて慈恩寺調査検討委員会を設置し、学術的裏付け調査と史跡範囲の確定、総合報告書作成を行った。また同時に史跡範囲の地図作成・地権者の同意を得た。平成26年(2014年)3月、「未来に伝える山形の宝」(10選)の一つに選定された。平成26年(2014年)1月29日寒河江市教育委員会から文化庁に対し国史跡指定にかかる意見具申書を提出し、同年10月6日付で「慈恩寺旧境内」の名称で国の史跡に指定された。2015年(平成27年)から史跡慈恩寺旧境内保存活用計画策定委員会が設置され2017年(平成29年)に計画書が発行された。 平安時代に作成された仏像14躯、鎌倉時代に作成された仏像29躯を現在まで伝え、岩手県の中尊寺、福島県の勝常寺と並んで、当地方を代表する寺院である。
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