戊辰の年明け
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/22 02:07 UTC 版)
1月、仙台藩士玉虫左太夫が来藩、新発田の意向を探る。家老の中でも中老格の溝口半兵衛が応対する。父半左衛門が家老を辞し、その後を継ぎ、このとき36歳。肝が据わっていることを買われた。 鳥羽・伏見の戦いの後、慶喜追討令が出、久我通久から新発田藩には京都の警護のために兵を出すようお達しがくる。上京兵力は、江戸から物頭久米三左衛門隊二百名、新発田から物頭佐治藤右衛門隊二百名の計四百名。総隊長は江戸詰家老速水八弥。 1月10日、京都で発表された朝敵の区分は一等徳川慶喜、二等松平容保(会津藩)、松平定敬(桑名藩)、となっていた。それならばと会津は2月1日、酒屋村の陣屋(新潟市酒屋町)に再び越後諸藩を集めて「酒屋会談」を行なう。中央情勢との関連でこの会談を危険と感じて、高田藩など欠席した藩も多かった。しかし、新発田藩は、自らの情報提供で第一回が開催されたのだから、二回目を欠席するのは自ら反会津を宣言するようなもの、ということで出席する。代表に七里敬吉郎、井東八之丞が送り込まれる。会談は無事終わるが、宴の最中、新潟奉行所から、新発田藩の銃兵隊数百人が京都へ向かったという知らせが入る。七里、井東は知らぬ存ぜぬを通すが、藩へ帰って調査し返答することを求められる。その後七里がどういった弁明をしたかは不明だが、会津藩は「疑念晴れ候」とした。
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