天皇主権
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天皇主権(てんのうしゅけん)とは、大日本帝国憲法において、主権が天皇に存するという解釈、学説。西洋の君主主権を日本に適用した内容である。天皇主権を中心として構成された憲法学説を天皇主体説という[1]。
概要
大日本帝国憲法に関しては「主権」のありかは実際は明確には記述されておらず[2]、現代しばしば論じられる明治憲法の「天皇主権」性はある種の短絡であってあくまで学説上の分類にすぎない。詔勅では繰り返し君民一体・君民父子・君民家族が説かれ、国家有機体説の下では臣民が輔弼(内閣)協賛(国会)し、これを受けて天皇が帝国を統治するものとした。一方で日本の国柄(国体)に関する議論は江戸期からさかんに議論されており「天皇独裁」が古来より一貫した日本の政体であるとする主張は明治維新の共通理念であり穂積八束や上杉慎吉らにより有力に主張された[3][4]。
歴史
1889年(明治22年)に公布され、翌1890年(明治23年)に施行された大日本帝国憲法(明治憲法)は、4条で「天皇ハ國ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ條規ニ依リテ之ヲ行フ」と定めた。この条文の解釈や憲法全体の解釈運用にあたっては、天皇主権を重んじる穂積八束や上杉慎吉などの君権学派(神権学派)と、議会制を中心とした立憲主義を重んじ、天皇機関説を唱えた美濃部達吉や佐々木惣一など立憲学派の二大学派に分かれて論争された。
明治憲法が施行された当初は、超然主義を唱えた藩閥政治家や官僚により、天皇主権を中心とした君権学派の解釈(天皇主体説)が重用された。その後、上杉と美濃部の天皇機関説論争が行われ、1913年(大正2年)には機関説が勝利し、憲法は機関説で運用された[要出典]。
その後、1935年(昭和10年)の天皇機関説事件で美濃部ら立憲学派(天皇機関説)が排撃され、同年に政府が発表した国体明徴声明では天皇主権を中心とした解釈(天皇主体説)が公定されたことで、以後、政府の公式見解では機関説は排され、これを主導した右翼勢力、軍人の力が拡大することとなった[要出典]。
その後、戦後の1947年(昭和22年)に大日本帝国憲法が改正、日本国憲法が施行された際、前文及び1条の記述をもとに「主権が天皇から国民に移行した国民主権」との八月革命説が表出したこともある。
見解
竹田恒泰は、天皇機関説事件以後も憲法学の世界においては依然として天皇機関説が理論的に正しい見解であったとしている[5]。
八木秀次は、明治憲法下の天皇主権について、当時その説を唱えていたのは穂積八束と上杉慎吉の二人ぐらいで学界では傍流の少数派であり、主流は美濃部達吉の国家法人説であったともして、当時の少数派であったはずの天皇主権が明治憲法の基本原理であったと説明されるようになったのは戦後になってからで講座派のイデオロギーの影響であるとしている[6]。
歴史学者の津田左右吉は、「昔から日本の天皇は国家の象徴、国民統合の象徴であられた」とし、明治憲法で、天皇の「地位やはたらき」を「ヨーロッパの近代の法制上の概念」にあてはめ、天皇を統治権の総攬者として規定してはあっても、それは天皇に専制的権力があるようにはなってなく、実際に於いては、「天皇がみずから政治上に主動的なはたらきをなされない」のが慣例であったと解説している[7]。
主権とか統治権とかいう概念によって昔からの日本の天皇の地位やはたらきを考えることができないことは、いうまでもありません。旧憲法で天皇を統治権の総攬者として規定してありまして、統治権ということばを用いてありますが、それは天皇の地位とはたらきを近代化しようとしたからであります。近代化と申しましたが、これはヨーロッパの近代の法制上の概念にあてはめたということであります。しかしそれにしても、その統治権の総攬のしかたは憲法の条規によることになっていて、天皇に専制的権力があるようにはなっていませんし、また法制上の規定はともかくも、実際に於いては、天皇がみずから政治上に主動的なはたらきをなされないのが、普通のばあいの慣例でありました。その点に於いて旧憲法の下に於ける天皇も、昔からの天皇と同じでありました。日本の政治は天皇絶対制であったなどというものがありますが、大まちがいであります。 — 津田左右吉「日本の皇室」[7]
注釈
- ^ ゴーマニズム宣言SPECIAL「天皇論」著者・小林よしのり P251
- ^ ただし「枢密院決議 大日本帝国憲法説明(自明治21年6月18日至7月13日決議)」[1]あるいは「伊藤博文著、帝国憲法義解」[2]では「(4条について)統治権を総攬するは主権の体なり。憲法の条規に依り之を施行するは主権の用なり」と明記する。一方でこの4条については原案作成時点から東久世通禧、山田顕義]、井上毅および伊藤博文の間で憲法上の天皇の位置づけに認識の差が存在しており、「元首」と明記することが却って天皇の地位や権能を不確かなものにしかねないとの批判や、西欧の国家有機体説と日本の国体は同一ではない、とりわけ西欧の国家有機体説は法人としての国家に主権があり、君主は誰でもなれる学説であり、日本の国体はそれとは明確に異なるとの批判などがあり、結果として伊藤の「天皇の大権は無制限だが天皇自らがそれを制限するのがこの憲法である」との趣旨で執筆されることとなった。「憲法説明」「憲法義解」の4条はこの経緯から難解な文面となっている。縣幸雄「帝国憲法における「元首」という語の規範的意味」(大妻女子大学紀要、1985.3.1)[3]
- ^ 大日本帝国憲法の制定は、明治憲法起草者の意図としては、日本古来の伝統的な不文憲法(「立憲独裁制」)が成文化され「立憲君主制」に改正されたものであると解釈され、帝国憲法は欽定憲法という点で建国以来の国体と法的に連続し、江戸時代の武家政権から政体は変わったものの、天皇独裁という日本の政治体制の根幹(国体)は一貫して維持されてきたという結論と結びついたものと解釈されていた。穂積八束「新憲法ノ法理及憲法解釈ノ心得」(上杉慎吉編、穂積八束博士論文集、大正2)[4]p.p.1-10。直接の引用は宇都宮純一『内田貴・法学の誕生 ─ 近代日本にとって「法」とは何であったか』を読む(金沢法学、筑摩書房2018.3)[5]PDF-P.12
- ^ 文部省思想局『各大学ニ於ケル憲法学説調査ニ関スル文書』によれば天皇主体説に立つ法学者は、穂積八束(東京帝大)、上杉慎吉(東京帝大)、筧克彦(東京商大など)、清水澄(中大)、佐藤丑次郎(東北大)、山崎又次郎(慶大)、蛭川新(駒沢大)、澤田五郎(東京農大)、松本重敏、木下孫一、井上孚麿(台北帝大)、大谷美隆(明大)、稻田周之介。
- ^ 竹田, p. 238.
- ^ 八木秀次 2003, p. 178.
- ^ a b 「元号の問題について」(中央公論 1950年7月号)。「第二 元号の問題について」(津田 2019, pp. 32–59)の中のpp.42-45
参考文献
- 竹田恒泰『天皇は本当にただの象徴に堕ちたのか』PHP研究所〈PHP新書〉、2018年1月5日。ISBN 978-4-569-83728-4。
- 津田左右吉『日本の皇室』中央公論新社〈中公クラシックス J69〉、2019年1月。 ISBN 978-4-12-160182-7。 – 初刊(早稲田大学出版部)は1952年10月 NCID BN08938750
- 八木秀次『日本国憲法とは何か』PHP研究所〈PHP新書〉、2003年5月2日。
関連項目
天皇主権と同じ種類の言葉
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