大逆事件以後とは? わかりやすく解説

大逆事件以後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/01 08:05 UTC 版)

大逆事件」の記事における「大逆事件以後」の解説

社会主義運動はこの事件数多く同志失い、しばらくの期間、運動沈滞することになったいわゆる冬の時代〉である。 徳冨蘆花秋水らの死刑阻止するため、蘆花の兄である徳富蘇峰通じて桂太郎首相へ嘆願した果たせず、明治44年1911年1月秋水らが処刑されてすぐの2月に、秋水心酔していた一高弁論部河上丈太郎森戸辰男主催で「謀叛論」を講演し学内騒動になった大逆事件文学者たちにも大きな影響与え石川啄木事件前後にピョートル・クロポトキン著作公判記録入手研究し、「時代閉塞状況」や「A LETTER FROM PRISON」などを執筆した木下杢太郎1911年3月戯曲和泉屋染物店」を執筆した永井荷風も『花火』の中で、「わたしは自ら文学者たる事について甚だしき羞恥感じた以来わたしは自分芸術品位江戸戯作者のなした程度まで引下げる如くはない思案したと書いている。 また秋水法廷で、「いまの天子は、南朝天子暗殺し三種の神器をうばいとった北朝天子ではないか」と発言したことが外部へもれ、南北朝正閏論起こった帝国議会衆議院国定教科書南北朝併立説を非難する質問書提出され2月4日議会は、南朝正統とする決議を出す。この決議によって、教科書執筆責任者喜田貞吉休職処分を受ける。以降国定教科書では「大日本史」を根拠に、三種の神器所有していた南朝正統とする記述差し替えられる。 翌明治45年1912年6月には、上杉慎吉天皇主権説発表した一方美濃部達吉天皇機関説主張し当時大学周辺では美濃部天皇機関説優勢になったが、のち天皇主権説優勢になる馬蹄銀事件秋水らを疎ましく思っていた山縣有朋はのちロシア革命勃発してからは極秘反共主義政策進め上杉天皇主権説基礎にした国体論形成されていく。 大石誠之助の甥である西村伊作も、大石遺産一部文化学院創設した。このことについて柄谷行人氏が「大正デモクラシー大正文化というのは、実質的に大逆事件死刑になった人の遺産成立した」と指摘している。

※この「大逆事件以後」の解説は、「大逆事件」の解説の一部です。
「大逆事件以後」を含む「大逆事件」の記事については、「大逆事件」の概要を参照ください。

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