西ノ丸下
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 15:53 UTC 版)
入国時はほぼ日比谷入江であった場所。海と繋がっていた頃は荷揚げ場や人寄場、天海の屋敷の他に本多忠勝や里見氏の屋敷があったが、継続して埋め立てが行われ海から切り離されて以降は主に幕閣に連なる譜代大名の屋敷地となる。初期には奥の道三堀と接する一帯には和田倉という蔵地が置かれ、蔵がなくなって以降も和田倉門の名が後世に残った。また西側には厩、東側には馬場があり、隣接する門は馬場先門と呼ばれたが、この門は寛文8年(1668年)まで不明門であった。
※この「西ノ丸下」の解説は、「江戸城」の解説の一部です。
「西ノ丸下」を含む「江戸城」の記事については、「江戸城」の概要を参照ください。
- 西ノ丸下のページへのリンク