概要と藩史とは? わかりやすく解説

概要と藩史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/30 05:53 UTC 版)

総社藩」の記事における「概要と藩史」の解説

小田原征伐後に関東入部した徳川家康は、家臣諏訪頼忠1万石を与えた。これが総社藩立藩である。頼忠は信濃名族諏訪家一族であった諏訪家武田信玄侵攻滅亡していたが、武田勝頼の代で武田家滅亡し、さらに本能寺の変織田信長死去する再起果たし天正壬午の乱北条家から徳川家離反し、その譜代家臣として存続していたのである文禄元年1592年)に頼忠は加増されて2万7000石の所領領することとなったその後諏訪家家督は頼忠の子・頼継ぎ慶長6年1601年)、前年関ヶ原の戦いにおける戦功賞され信濃旧領諏訪高島藩)へ移されることとなった。 代わって同年9月北条家遺臣徳川家譜代家臣となった秋元長朝1万石で入った。長朝は地元領民などの助力得て総社新城築城城下町建設計画したいわゆる総社町」の建設である。さらに新田開発用水路開削事業検地などにも尽力し、藩の支配体制早くから固めた寛永5年1628年8月29日、長朝は83歳で死去。跡を子の泰朝が継いだ寛永10年1633年2月、泰朝は1万8000石で甲斐谷村藩加増移封され、総社藩廃藩となった。その所領高崎藩預けられていた徳川忠長への小遣い料として、安藤重長与えられた。 安永5年1776年)、旧総社藩百姓衆は、かつての名藩主であった長朝の徳を讃えて、菩提寺ある光巌寺の境内霊廟前に、「力田遺愛碑」を建立している。

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概要と藩史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/28 06:23 UTC 版)

喜多見藩」の記事における「概要と藩史」の解説

幕府足元である江戸郊外現在の東京23区該当する地域内に本拠地となる藩庁陣屋)が設置されていた数少ない藩である。 藩主喜多見氏木田江戸氏)は、名族秩父氏流れを汲む武蔵江戸氏後裔一族である。江戸氏平安時代後期江戸郷を領地とした江戸重継を祖とし、多数支流一族配して武蔵国広範囲勢力拡大した。しかし、戦国時代になると江戸氏江戸太田道灌明け渡して現在の喜多見移り古河公方次いで後北条氏家臣となった天正18年1590年)の小田原征伐北条氏敗北すると、江戸勝忠は徳川家の家臣となり、姓を喜多見改め以降喜多見勝忠名乗った。勝忠は関ヶ原の戦い大坂の陣従軍した功績から、元和元年1615年)に近江国郡代となる。その後摂津和泉河内の3か国奉行務め後陽成院葬礼務めるなどの功績挙げたことから、2000石にまで加増された。寛永4年12月26日1628年2月1日)、勝忠は堺で病死した。 勝忠の死後家督次男喜多見重恒が継いだ。このとき、2000石の所領1000石を重恒、残る1000石を喜多見重勝継いだ。重恒は延宝7年6月21日1679年7月28日)に死去し、跡を外孫喜多見重政継いだ重政徳川綱吉寵愛を受け出世して2000石、後には6800石余を加増され、合計1万石で大名列した貞享2年1685年)、側用人となる。貞享3年1686年)、河内武蔵国内においてさらに1万石を加増されて合計2万石の大名となり、喜多見立藩した。幕府足元という立地にもかかわらず築城許され諸費用綱吉から下賜されている。 元禄2年1689年2月重政は突然改易され(喜多見家の分家であった喜多見重治が朝岡直国と刃傷事件起こしたため連座により改易、との説がある)、伊勢桑名藩松平定重預かりとなり、元禄6年7月28日1693年8月29日)、配流先の桑名死亡した喜多見藩改易については、柳沢出羽守吉保が側用人登用され以降多数将軍側近失脚している事実から、柳沢吉保による陰謀説唱える向きもある。 改易により、喜多見藩家臣達は一朝にして浪人となり、あるいは他領に職を求め、あるいは武士捨て土着して帰農した。喜多見の地には帰農した者たちの子孫が多く、『新編武蔵風土記稿』(1804-1821年刊)の喜多見の項に、「村内香取齋藤小川を氏せる村民四家あり、いずれも喜多見氏家来にて故あるもののよし……この四家呼んで土人浪人百姓といへり」と記されている。 『武鑑』の喜多見藩の項には、屋敷西ノ丸下」、家老として「齋藤庄兵衛香取弥一左衛門」と記載されている。喜多見氏菩提寺であった永劫慶元寺世田谷区喜多見)には、喜多見氏墓所を囲む形で家臣団香取氏、齋藤氏小川氏森氏城田氏ほか)の墓が配置されている。 このうち香取氏(当主香取万平)は、同家墓誌によると江戸氏分家であるとされる齋藤氏当主齋藤正)は、同家家譜調査した郷土史家田中隆之によると、美濃国齋藤冶平立重が越前勝山経て大永2年9月1522年9月)に喜多見氏に勝手勘定奉行として仕えたとされる

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概要と藩史

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館林藩」の記事における「概要と藩史」の解説

小田原征伐後、関東入部した徳川家康は、徳川四天王一人榊原康政館林10万石を与えた。これが館林藩立藩である。康政は検地館林城拡張工事、さらに城下町の整備治水工事日光脇往還などの街道新設などに尽力し藩政基礎固めた。康政は慶長5年1600年)の関ヶ原の戦い徳川秀忠軍に属して真田昌幸戦った戦後、康政は加増移封の話もあったが、館林江戸近くて何かと都合が良いという理由から、これを断っている。康政の死後、跡を継いだ康勝大坂の陣において戦功挙げたが、直後元和元年1615年5月27日嗣子無く死去したこのため榊原家断絶危機に立たされたが、幕府由緒ある榊原家家名絶えることを惜しんで、康政の孫で大須賀家を継いでいた忠次康勝養嗣子として跡を継がせた。忠次元和2年1616年1月家康から松平名乗り終生許されたため、松平忠次とも呼ばれる寛永2年1625年12月11日には1万石の加増受けた寛永20年1643年7月4日忠次陸奥白河藩移されると、館林藩廃藩となり、藩領公儀御料幕府直轄地となった翌年2月28日遠江浜松藩から松平乗寿が6万石入り、再び館林藩立藩した。承応3年1654年1月26日、乗寿は死去して子の松平乗久跡を継ぐ。このとき、乗久は弟の乗政5000石を分与したため、5万5000となった。そして寛文元年1661年)閏8月3日、乗久は下総佐倉藩移され、代わって第4代将軍徳川家綱の三弟・綱吉25万石館林藩となった。ただしこのときの館林藩主は江戸定府で、綱吉江戸神田御殿居住した延宝8年1680年)に家綱嗣子無く死去すると、綱吉はその跡を継いで5代将軍となったこのため綱吉の子徳松将軍世子のまま館林藩継いだが、徳松天和3年1683年)閏5月28日4歳夭折したため、館林藩は再び廃藩藩領公儀御料戻り、このとき館林城破却された。 宝永4年1707年1月11日綱吉の甥で将軍世子となっていた徳川綱豊(後の6代将軍徳川家宣)の実弟松平清武2万4000石で入部するその後宝永7年正徳2年2度わたって加増を受け、5万4000となった第3藩主・武元の代である享保13年1728年9月陸奥棚倉藩移された。入れ替わり若年寄太田資晴5万石で入るが、享保19年1734年9月大坂城代となったため、所領大坂周辺に移さざるを得なくなり、再び館林藩廃藩となった元文5年1740年5月、資晴の子・資俊が5万石で入って再び館林藩立藩されたが、延享3年1746年9月25日遠江掛川藩移され、代わって西の丸老中となっていた武元が5万4000石で再び入った翌年、武元は本丸老中栄進し、明和6年1769年12月1日には7000石の加増受けて、61000石の所領領することとなった第3藩主・斉厚の代である天保7年1836年3月越智松平家石見浜田藩移された。 代わって棚倉より井上正春が6万石で入る。しかし弘化2年1845年11月遠江浜松藩移され、代わって出羽山形藩から秋元志朝が6万石入った。志朝は民政に力を注ぎ文武奨励などを行って藩政改革成功収めた。また長州藩とも縁戚関係にあったため、常陸水戸藩と共に関東における尊皇攘夷派急先鋒となった。ところがこのことが幕府嫌疑招き元治元年1864年7月禁門の変長州藩京都から駆逐されて朝敵となると、志朝は強制隠居処分となり同年10月27日家督養嗣子の礼朝に譲った明治元年1868年)の戊辰戦争では、遅参したことを咎められたが、金2万両を献上したことによりこれを許され政府軍一員として奥羽征伐軍功挙げた。これにより翌年1万石の加増を受ける。礼朝は同年版籍奉還藩知事となる。明治4年1871年)の廃藩置県館林藩廃藩となって館林県栃木県経て明治9年1876年)に群馬県編入された。 徳川家と深い関係を持った藩でありながら藩主長期による支配がなく、廃藩公儀御料になることも少なくなかった比較不安定な藩だった。

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