概要と藩史
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小田原征伐後に関東に入部した徳川家康は、家臣の諏訪頼忠に1万石を与えた。これが総社藩の立藩である。頼忠は信濃の名族・諏訪家の一族であった。諏訪家は武田信玄の侵攻で滅亡していたが、武田勝頼の代で武田家が滅亡し、さらに本能寺の変で織田信長も死去すると再起を果たし、天正壬午の乱で北条家から徳川家に離反し、その譜代家臣として存続していたのである。文禄元年(1592年)に頼忠は加増されて2万7000石の所領を領することとなった。その後、諏訪家の家督は頼忠の子・頼水が継ぎ、慶長6年(1601年)、前年の関ヶ原の戦いにおける戦功を賞されて信濃の旧領諏訪(高島藩)へ移されることとなった。 代わって同年9月、北条家の遺臣で徳川家の譜代家臣となった秋元長朝が1万石で入った。長朝は地元の領民などの助力を得て総社に新城築城と城下町建設を計画した。いわゆる「総社町」の建設である。さらに新田開発や用水路の開削事業、検地などにも尽力し、藩の支配体制を早くから固めた。寛永5年(1628年)8月29日、長朝は83歳で死去。跡を子の泰朝が継いだ。寛永10年(1633年)2月、泰朝は1万8000石で甲斐谷村藩に加増移封され、総社藩は廃藩となった。その所領は高崎藩に預けられていた徳川忠長への小遣い料として、安藤重長に与えられた。 安永5年(1776年)、旧総社藩の百姓衆は、かつての名藩主であった長朝の徳を讃えて、菩提寺である光巌寺の境内霊廟前に、「力田遺愛碑」を建立している。
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概要と藩史
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幕府の足元である江戸郊外、現在の東京23区に該当する地域内に本拠地となる藩庁(陣屋)が設置されていた数少ない藩である。 藩主の喜多見氏(木田見江戸氏)は、名族秩父氏の流れを汲む武蔵江戸氏の後裔の一族である。江戸氏は平安時代後期に江戸郷を領地とした江戸重継を祖とし、多数の支流一族を配して武蔵国の広範囲に勢力を拡大した。しかし、戦国時代になると江戸氏は江戸を太田道灌に明け渡して現在の喜多見に移り、古河公方、次いで後北条氏の家臣となった。天正18年(1590年)の小田原征伐で北条氏が敗北すると、江戸勝忠は徳川家の家臣となり、姓を喜多見に改め、以降は喜多見勝忠と名乗った。勝忠は関ヶ原の戦い、大坂の陣に従軍した功績から、元和元年(1615年)に近江国郡代となる。その後も摂津・和泉・河内の3か国奉行を務め、後陽成院の葬礼を務めるなどの功績を挙げたことから、2000石にまで加増された。寛永4年12月26日(1628年2月1日)、勝忠は堺で病死した。 勝忠の死後、家督は次男の喜多見重恒が継いだ。このとき、2000石の所領は1000石を重恒、残る1000石を喜多見重勝が継いだ。重恒は延宝7年6月21日(1679年7月28日)に死去し、跡を外孫の喜多見重政が継いだ。重政は徳川綱吉の寵愛を受け出世して2000石、後には6800石余を加増され、合計1万石で大名に列した。貞享2年(1685年)、側用人となる。貞享3年(1686年)、河内・武蔵国内においてさらに1万石を加増されて合計2万石の大名となり、喜多見に立藩した。幕府の足元という立地にもかかわらず築城を許され、諸費用を綱吉から下賜されている。 元禄2年(1689年)2月、重政は突然改易され(喜多見家の分家筋であった喜多見重治が朝岡直国と刃傷事件を起こしたため連座により改易、との説がある)、伊勢桑名藩の松平定重預かりとなり、元禄6年7月28日(1693年8月29日)、配流先の桑名で死亡した。喜多見藩の改易については、柳沢出羽守吉保が側用人に登用されて以降、多数の将軍側近が失脚している事実から、柳沢吉保による陰謀説を唱える向きもある。 改易により、喜多見藩の家臣達は一朝にして浪人となり、あるいは他領に職を求め、あるいは武士を捨て土着して帰農した。喜多見の地には帰農した者たちの子孫が多く、『新編武蔵風土記稿』(1804-1821年刊)の喜多見村の項に、「村内に香取、齋藤、小川を氏せる村民四家あり、いずれも喜多見氏の家来にて故あるもののよし……この四家を呼んで土人浪人百姓といへり」と記されている。 『武鑑』の喜多見藩の項には、屋敷「西ノ丸下」、家老として「齋藤庄兵衛、香取弥一左衛門」と記載されている。喜多見氏の菩提寺であった永劫山華林院慶元寺(世田谷区喜多見)には、喜多見氏の墓所を囲む形で家臣団(香取氏、齋藤氏、小川氏、森氏、城田氏ほか)の墓が配置されている。 このうち、香取氏(当主:香取万平)は、同家の墓誌によると江戸氏の分家であるとされる。齋藤氏(当主:齋藤正)は、同家の家譜を調査した郷土史家・田中隆之によると、美濃国・齋藤冶平立重が越前勝山を経て、大永2年9月(1522年9月)に喜多見氏に勝手勘定奉行として仕えたとされる。
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概要と藩史
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小田原征伐後、関東に入部した徳川家康は、徳川四天王の一人・榊原康政に館林10万石を与えた。これが館林藩の立藩である。康政は検地や館林城の拡張工事、さらに城下町の整備や治水工事、日光脇往還などの街道新設などに尽力し、藩政の基礎を固めた。康政は慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで徳川秀忠軍に属して真田昌幸と戦った。戦後、康政は加増移封の話もあったが、館林は江戸に近くて何かと都合が良いという理由から、これを断っている。康政の死後、跡を継いだ康勝は大坂の陣において戦功を挙げたが、直後の元和元年(1615年)5月27日、嗣子無く死去した。このため、榊原家は断絶の危機に立たされたが、幕府は由緒ある榊原家の家名が絶えることを惜しんで、康政の孫で大須賀家を継いでいた忠次を康勝の養嗣子として跡を継がせた。忠次は元和2年(1616年)1月に家康から松平の名乗りを終生許されたため、松平忠次とも呼ばれる。寛永2年(1625年)12月11日には1万石の加増を受けた。寛永20年(1643年)7月4日に忠次が陸奥白河藩に移されると、館林藩は廃藩となり、藩領は公儀御料(幕府直轄地)となった。 翌年2月28日、遠江浜松藩から松平乗寿が6万石で入り、再び館林藩を立藩した。承応3年(1654年)1月26日、乗寿は死去して子の松平乗久が跡を継ぐ。このとき、乗久は弟の乗政に5000石を分与したため、5万5000石となった。そして寛文元年(1661年)閏8月3日、乗久は下総佐倉藩へ移され、代わって第4代将軍・徳川家綱の三弟・綱吉が25万石で館林藩主となった。ただしこのときの館林藩主は江戸定府で、綱吉は江戸の神田御殿に居住した。延宝8年(1680年)に家綱が嗣子無く死去すると、綱吉はその跡を継いで第5代将軍となった。このため綱吉の子・徳松が将軍世子のまま館林藩を継いだが、徳松は天和3年(1683年)閏5月28日に4歳で夭折したため、館林藩は再び廃藩、藩領は公儀御料に戻り、このとき館林城が破却された。 宝永4年(1707年)1月11日、綱吉の甥で将軍世子となっていた徳川綱豊(後の6代将軍・徳川家宣)の実弟・松平清武が2万4000石で入部する。その後、宝永7年と正徳2年の2度にわたって加増を受け、5万4000石となった。第3代藩主・武元の代である享保13年(1728年)9月、陸奥棚倉藩へ移された。入れ替わりで若年寄の太田資晴が5万石で入るが、享保19年(1734年)9月に大坂城代となったため、所領を大坂周辺に移さざるを得なくなり、再び館林藩は廃藩となった。元文5年(1740年)5月、資晴の子・資俊が5万石で入って再び館林藩が立藩されたが、延享3年(1746年)9月25日に遠江掛川藩に移され、代わって西の丸老中となっていた武元が5万4000石で再び入った。翌年、武元は本丸老中に栄進し、明和6年(1769年)12月1日には7000石の加増を受けて、6万1000石の所領を領することとなった。第3代藩主・斉厚の代である天保7年(1836年)3月、越智松平家は石見浜田藩へ移された。 代わって棚倉より井上正春が6万石で入る。しかし弘化2年(1845年)11月、遠江浜松藩へ移され、代わって出羽山形藩から秋元志朝が6万石で入った。志朝は民政に力を注ぎ、文武奨励などを行って藩政改革に成功を収めた。また長州藩とも縁戚関係にあったため、常陸水戸藩と共に関東における尊皇攘夷派の急先鋒となった。ところがこのことが幕府の嫌疑を招き、元治元年(1864年)7月の禁門の変で長州藩が京都から駆逐されて朝敵となると、志朝は強制隠居処分となり同年10月27日に家督を養嗣子の礼朝に譲った。 明治元年(1868年)の戊辰戦争では、遅参したことを咎められたが、金2万両を献上したことによりこれを許され、政府軍の一員として奥羽征伐で軍功を挙げた。これにより翌年、1万石の加増を受ける。礼朝は同年の版籍奉還で藩知事となる。明治4年(1871年)の廃藩置県で館林藩は廃藩となって館林県、栃木県を経て明治9年(1876年)に群馬県へ編入された。 徳川家と深い関係を持った藩でありながら、藩主の長期による支配がなく、廃藩・公儀御料になることも少なくなかった、比較的不安定な藩だった。
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