守山城をめぐる争い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/02 02:49 UTC 版)
弘治元年(1555年)6月、弟・秀孝が叔父・信次の家臣・洲賀才蔵に誤殺された。それを聞いた信行は、信次の居城・守山城の城下を焼き払わせた。これに対して信長は「無防備に単騎で行動していた秀孝にも非がある」と言って、信次を処罰しようともしなかった。この対応の違いにも、信行と信長の対立が見て取れる。 信次は逐電したため、守山城主の地位には、信行の兄弟である織田安房守(信時ないし秀俊)がついた。安房守は信長方の人物だったと考えられる。ところが、時をおかずに、翌年の弘治2年6月頃、安房守は横死してしまった。安房守を死に追いやったのは守山城年寄衆・角田新五であった。しかし角田は全く処罰を受けておらず、後の稲生の戦いでは信行の側について参戦していることから、安房守謀殺に信行が関与していた可能性が指摘される。 前々年の叔父・信光の殺害に続き、安房守も死去したことで、織田弾正忠家内の覇権争いに生き残ったのは、信行と信長の2人となった。
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