守山城の略年表とは? わかりやすく解説

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守山城の略年表

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 14:08 UTC 版)

守山城 (尾張国)」の記事における「守山城の略年表」の解説

築城年、築城者ともに詳細不明であるが、大永年間1521年〜)には今川松平方の城として存在していたとされる和暦西暦主な出来事大永6年 1526年 3月27日連歌師柴屋軒宗長がこの城を訪れ連歌の会を開催(『宗長手記』)。守山初見。「尾張の国守山松平与一千句中略新地知行彼是祝言にや」松平信定新たに守山所領し、すでに一定の格式持った城館があったと推定天文2年 1533年 11月には仁和寺の尊海僧正美濃井口からやな・でんがくくぼを通って守山といへる所に泊まりて」との記録。(あづまの道の記 群書類従三三九巻)守山城宿泊した推定される天文4年 1535年 12月守山陣中において清康家臣阿部弥七朗に斬殺される(「守山崩れ」)。当時守山城主は織田信光弘治元年 1555年 城主は、その後信次(信長の弟秀孝を誤殺逃亡※)信行守山城下に放火織田信長清州から駆け付ける柴田勝家らに守山城包囲される (『信長公記』)。 天正元年 1573年 お市の方三人の娘(茶々、初、江)が信次に保護され守山城1年間滞在することとなる(『溪心院文』)。 天正2年 1574年 信次が長島合戦戦死廃城となる。 明和4年 1767年 矢田川氾濫により瀬替え陸続きであった長母寺守山台地から切り離される

※この「守山城の略年表」の解説は、「守山城 (尾張国)」の解説の一部です。
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