北畠具親とは? わかりやすく解説

北畠具親(きたばたけ ともちか) ????~1586

宮内少輔
◇父:北畠材親 
 伊勢国司・北畠氏一族大和興福寺にて僧籍入っていたが、兄具教ら一族殺されたことを知ると還俗し、具教の遺児寿丸擁して旧臣森城糾合する。しかし数に勝る北畠具豊勢に川俣戦いで敗れ安芸毛利氏の下に逃れた1582年織田信長本能寺暗殺されたと聞くや、直ち伊勢戻って旧臣集め五箇篠山城挙兵して戦うが落城。この時、妻女身代わりとなって、具親は伊賀へ逃がれたという。後に羽柴氏蒲生氏郷従った

北畠具親

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/10/18 00:11 UTC 版)

北畠 具親(きたばたけ ともちか、生年未詳[1] - 天正14年6月9日1586年7月25日))は、戦国時代武将北畠具教の実弟である[1]。宮内少輔[1]

生涯

伊勢国司の北畠家第7代当主・北畠晴具の三男として生まれた[1]。長兄に具教がいたため、はじめ僧侶となって奈良興福寺東門院院主の地位にあった[1]

天正4年(1576年)11月、三瀬の変で兄が織田信長信雄父子によって殺害されると、伊賀に潜入し[1]、還俗して伊勢に戻り、伊勢南部の北畠家の旧臣をかき集めた。

天正5年(1577年)、三瀬谷・河俣谷・多気・小倭衆らの在地武士と飯高郡森城で挙兵に及んだが、織田信雄によって鎮圧・落城した[1]。このため、安芸毛利輝元を頼って、備後に落ち延びた[1]。そして、滞在していた足利義昭に仕え、幕府衆となる。

天正10年(1582年)6月、信長が本能寺の変で死去すると、具親は伊勢に戻り、安保直親らと共に伊勢五箇篠山城で再挙した。しかし、津川義冬率いる織田信雄軍に再び敗れ、伊賀に落ちたという。

天正12年(1584年)、蒲生氏郷が伊勢に入封すると、具親は蒲生氏のもとに客臣として迎えられるが、天正14年(1586年)6月9日に病没している。

脚注

  1. ^ a b c d e f g h 阿部 & 西村 1990, p. 278.

参考文献




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