変後の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/23 16:06 UTC 版)
一連の粛清の手を逃れた北畠の将たちは北畠政成の守る防御能力の高い霧山城(多気御所)に集結し抵抗を試みたが、信長は即座に羽柴秀吉・神戸信孝・関盛信ら15,000の兵を送り込んで霧山城を包囲。12月4日には霧山城は陥落して守将の北畠政成・波瀬具通らが自害して果てた。霧山城下は灰燼と化し、霧山城も焼け落ちたのでそのまま廃城となった。同年12月15日には信意の側近で変にも参加していた津田一安が信長の命を受けた日置大膳亮によって田丸城の普請場で斬殺されている。 その後、一族誅殺の報を聞いて激怒した具教の弟である奈良興福寺東門院院主が伊賀に潜伏し、そこで還俗して北畠具親を名乗り挙兵。天正5年(1577年)に鳥屋尾満栄・家城之清ら北畠旧臣の協力を得て三瀬谷・河俣谷・多気・小倭衆らの在地武士と飯高郡森城に旗揚げしたが、信意麾下の日置大膳亮・日置次太夫兄弟らによって年内にはこの反乱も鎮圧され、具親は毛利輝元を頼って安芸国にまで亡命した。 これによって信意の伊勢掌握の妨げになっていた旧北畠具教・具房家臣の一門一派はほぼ伊勢から駆逐され、要衝には信意の側近たちが配置される事となり織田氏による北畠氏簒奪が完了した。
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