変後の展開
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/13 09:16 UTC 版)
12月10日、慶喜は自らの新たな呼称を「上様」とすると宣言して、征夷大将軍が廃止されても「上様」が幕府の機構を生かしてそのまま全国支配を継続する意向を仄めかした。また、薩長らの強硬な動きに在京の諸藩代表の動揺が広がった。そこへ土佐藩ら公議政体派が巻き返しを図り、12日には肥後藩・筑前藩・阿波藩などの代表が御所からの軍隊引揚を薩長側に要求する動きを見せた。そこで13日には岩倉や西郷は妥協案として辞官納地に慶喜が応じれば、慶喜を議定に任命するとともに「前内大臣」としての待遇を認めるとする提案を行わざるを得なくなった。これによって辞官納地も有名無実化される寸前になり、16日には慶喜がアメリカ・イギリス・フランス・オランダ・イタリア・プロイセンの6ヶ国公使と大坂城で会談を行ない、内政不干渉と外交権の幕府の保持を承認させ、更に19日には朝廷に対して王政復古の大号令の撤回を公然と要求するまでになった。 これに対して12月22日に朝廷は、 徳川內府宇內之形勢を察し政權を歸し奉り候に付き、朝廷に於て萬機御裁決候に付ては、博く天下の公儀をとり偏黨の私なきを以て衆心と休威を同ふし、徳川祖先の制度美事良法は其儘被差置き、御變更これ無くの候間、列藩此聖意を体し、心付候儀は不憚忌諱極言高論して救縄補正に力を盡し、上勤王の實效を顯し下民人の心を失なはず、皇國をして一地球中に冠超せしむる樣淬勵致すべき旨御沙汰候事 という告諭を出した。これは事実上徳川幕藩体制による大政委任の継続を承認したと言えるもので、王政復古の大号令は取り消されなかったものの、慶喜の主張が完全に認められたものに他ならなかった。 だが、この事態に危機感を抱いた薩摩藩の暗躍に旧幕府側の強硬派が乗せられ、慶応4年1月3日に鳥羽・伏見の戦い(戊辰戦争)に突入することになる。この戦いで旧幕府軍は薩長軍に敗退し、旧幕府方の敗勢を知った朝廷は仁和寺宮嘉彰親王を征討大将軍に任命すると共に、錦の御旗と節刀を与え、新政府軍を官軍とした。窮地にあった新政府は息を吹き返し、一方の旧幕府側は「朝敵」として窮地に陥る事となった。 このとき、容堂は岩倉に「この戦は薩長の起こした不当な戦である!」と抗議したが、岩倉より「わかった。ならば土佐藩は慶喜側につきなさい」と一喝されて、沈黙してしまったという。その後、容堂は土佐藩の軍勢を乾退助に委ね、薩長側と同一歩調を取るようになった。 詳細は「薩土討幕の密約」を参照 ただ、いまだに関東を中心に旧幕府の勢力圏が広がっている中で、朝廷が真の意味で倒幕を実現させるまでにはなお時間を要した。4月11日、新政府軍が江戸総攻撃を中止する代わりに、旧幕府の本拠地・江戸城を明け渡させ、幕府機構解体を大きく前進させた。旧幕臣・福地源一郎は、著書『幕府衰亡論』の中で「江戸開城を以て江戸幕府は滅亡した」としている。
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