神呪寺城、鷲林寺城
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/19 08:34 UTC 版)
有岡城の戦いは、有岡城とその周辺で行われた戦いだけではなく、六甲山脈でも行われていた。 毛利の援軍は来援しなかったが兵糧は補給し続けていて、当初は尼崎城に陸揚げされ有岡城に届けられていたが、次第に織田軍の砦が築かれると、尼崎ルートの補給路は使えなくなり、花隈城に一旦陸揚げした物資を神呪寺城、鷲林寺城や宝塚の洞窟に一旦保管し、その後夜間に昆陽野を横切り有岡城に運ぶルートを使っていた。 神呪寺城、鷲林寺城は三好長慶の時代は越水城の支城となっており、この戦いの時は越水城が廃城となり有岡城の支城となっていたと[誰に?]考えられている。当時の神呪寺(寺院が城のようになっていた)は現在より広範囲に寺院があったと思われ、池田市、豊中市、尼崎市まで眺望がきき、『郷土の城ものがたり』によると神呪寺城、鷲林寺城は烽火城(烽火のための砦)で織田軍の動きを烽火で知らしていたとも記している。補給路を断つためか、烽火城を潰すためかは不明だが、「御断わりも申し上げず曲事」と信長は激怒し兵を六甲山中や神呪寺城、鷲林寺城に向けた。この時の様子は「山々をさがし、あるいは斬りすて、あるいは兵糧その外、思い思いに取り来ること、際限なし」と記されている。略奪を繰り返し、神呪寺城、鷲林寺城以外の補給基地となっていた六甲山系の寺院も発見され焼かれていった。
※この「神呪寺城、鷲林寺城」の解説は、「有岡城の戦い」の解説の一部です。
「神呪寺城、鷲林寺城」を含む「有岡城の戦い」の記事については、「有岡城の戦い」の概要を参照ください。
- 神呪寺城、鷲林寺城のページへのリンク