雨宮家次
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/09 05:38 UTC 版)
時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
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生誕 | 享禄4年(1531年) |
死没 | 天正3年5月21日(1575年6月29日) |
別名 | 与十郎、十兵衛 |
戒名 | 恵閣院殿法観日厳居士 |
主君 | 武田信玄、義信、北条氏政、武田信玄、勝頼 |
氏族 | 雨宮氏 |
父母 | 父:清野清秀、養父:雨宮重家 |
兄弟 | 満秀、満成、正利、家次 |
子 | 昌茂、青沼主殿の妻、猶良 |
雨宮 家次(あめのみや いえつぐ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。甲斐武田氏の家臣。
略歴
武田信玄の長男、武田義信附の家臣。永禄8年(1565年)、義信事件にて義信が謀反の疑いで切腹すると、武田家を追放され後北条家に仕えた。後北条家では功績をたびたび重ね、7度感状を受ける。のち、高坂昌信を介して再び武田家に仕える。天正3年(1575年)5月21日、高坂昌澄の組として長篠の戦いに参加し、徳川家康の家臣、小栗忠政に討たれた。そのとき、家次は刀を小栗に託した。この刀は、のち小栗から家次の子孫に渡ることになる。寛政重修諸家譜「小栗忠政」に記載がある。
その他
参考文献
関連項目
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