清野信秀
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/10 09:08 UTC 版)
時代 | 戦国時代 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 永禄8年1月12日(1565年2月22日) |
改名 | 清秀、信秀 |
別名 | 勝照、美作入道、道寿軒 |
戒名 | 禅透 |
官位 | 伊勢守、山城守、常陸守 |
主君 | 村上義清、武田信玄 |
氏族 | 清和源氏村上氏流清野氏 |
父母 | 父:清野国俊 |
子 | 満秀、満成、雨宮正利、雨宮家次 |
清野 信秀(きよの のぶひで)は、戦国時代の武将。信濃村上氏の家臣。信濃国埴科郡鞍骨城主。
略歴
北信濃の有力豪族村上氏の支流。村上義清に従って武田信玄と戦った。天文19年の(1550年)砥石城の合戦では、9月1日、甲斐武田氏に寝返っており、『高白斎記』には「辛卯。申刻、清野出仕。」と記されている。その後、村上氏に再び従属したが、義清が信玄に敗れると、共に越後国の長尾景虎の許へ逃れる。
永禄2年(1559年)には武田氏に従って旧領の清野郷、雨宮郷を安堵され、偏諱を受け「清秀」を「信秀」と改めた[1]。
脚注
- ^ 武田信玄、「川中島合戦」戦費の負担求める 北信濃の家臣宛ての書状が見つかる信濃毎日新聞信濃毎日年2月28日
外部リンク
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