医王寺_(新城市)とは? わかりやすく解説

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医王寺 (新城市)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/25 13:58 UTC 版)

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医王寺
医王寺本堂
所在地 愛知県新城市長篠字弥陀の前256番地
位置 北緯34度55分49.21秒 東経137度33分28.34秒 / 北緯34.9303361度 東経137.5578722度 / 34.9303361; 137.5578722座標: 北緯34度55分49.21秒 東経137度33分28.34秒 / 北緯34.9303361度 東経137.5578722度 / 34.9303361; 137.5578722
山号 長篠山
宗派 曹洞宗
本尊 薬師如来
創建年 永正11年(1514年
開山 克補契嶷
法人番号 2180305007670
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医王寺(いおうじ)は、愛知県新城市にある曹洞宗の寺院。

概要

山号は長篠山(ちょうじょうざん)。本尊は薬師如来長篠の戦い武田勝頼が本陣に利用した寺として知られる。

歴史

『医王寺誌』によれば、室町時代の僧・琴室契音(きんしつかいおん)によって大洞山泉龍院の末寺として開創されたという。

明応7年(1498年)、琴室は諸国行脚の末に設楽郡篠窪という地に在った小庵に巡り合った。この庵に住み始めると里人からの支えを得た。近郷を領する菅沼氏からの帰依も重なったためか、永正11年(1514年)には小庵は、立派な伽藍の寺院に生まれ変わった。その小庵が、かつては鳳来寺真言宗学頭・医王院の末に連なっていたという経緯で、寺号は長篠山医王寺と定められた。これには当寺本尊・薬師如来の異名が『大医王仏』である事も起因している。だが、琴室は自らに因る開山を望まず、渥美郡全久院開山で知られる師の克補契嶷(こくほかいぎょく)に開山を拝請、琴室自身は医王寺の2世住持になったという。

開山当時の長篠城主である菅沼元成は素より、後代では野田城初代城主の菅沼定則から梵鐘を寄進されるなど、大檀那であった田峯城主・菅沼定継ら菅沼一門の厚い庇護を受けた。他にも永禄年間(1558年70年)には今川氏真から茶湯料5貫文の寄進、天正元年(1573年)に新たに長篠城主となった奥平貞昌からは水田1町歩の寄進を受けている。

月傳太随(げつでんたいずい)和尚が4世住持を務めていた天正3年(1575年)には長篠の戦いが勃発、武田勝頼の本陣が布かれた。後日、長篠城の後詰に織田信長徳川家康の連合軍が現れたとの報を受けると、山県昌景馬場信春などの諸将と軍議が開かれ、連合軍との決戦が採択された。

なお、山門の脇には弥陀が池と呼ばれる池が在り、『片葉の葦』の伝説で知られる葦が生息している。

末寺

江戸時代までは10余か所に末寺を有していたが、その多くが現在では廃寺となっている。

  • 大通寺(新城市長篠字市場51) - 長篠の戦いでは馬場信春が布陣。水杯の伝説で知られる。
  • 智蔵院(新城市川合)
  • 正福寺(新城市長篠)
  • 泉昌寺(新城市大海)
  • 新昌寺(新城市有海。鳥居強右衛門の墓所)
  • 報恩寺(新城市横川)
  • 徳蔵寺(新城市市川)
  • 龍昌院(新城市八束穂。廃寺)

ギャラリー

参考文献

  • 医王寺誌



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