決闘前
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/03 09:56 UTC 版)
元禄7年2月7日、伊予西条藩の組頭の下で同藩藩士の菅野六郎左衛門と村上庄左衛門が相番していたときのこと、年始振舞に村上が菅野を疎言したことについて2人は口論になった。このときは他の藩士たちがすぐに止めに入ったため、2人は盃を交わして仲直りしたのだが、その後また口論となってしまう。ついに2人は高田馬場で決闘をすることと決める。 しかし菅野は菅野家で若党と草履取りをしていた2人しか集められなかった。一方、村上家は3兄弟であり、しかも家来も含めてすでに6・7人は集めたと聞き及ぶ。そこで菅野は同じ堀内道場の門弟で叔父・甥の契りを交わしていた剣客中山安兵衛(堀部武庸)のもとへ行き、「草履取りと若党しかおらず、決闘で役に立つ連中とも思えない。万が一自分が討たれた時は自分の妻子を引き受け、また代わりに村上を討ってほしい」と申し出てきた。これに対して安兵衛は「事情は承知した。しかし後の仇討は受けがたい。今こそお供させていただきたい。貴公よりは手足も達者ですから、敵が何人いても駆け回りひとりで討ち倒し、貴公には手を煩わせません」と応え、菅野がこれを聞いて同道を許可したため、決闘場の高田馬場へ一緒に行くこととなった。
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