大石の忠僕
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 04:50 UTC 版)
伴蒿蹊の『近世畸人伝』の巻之二に次のような話が載っている。 赤穂開城の後、大石が赤穂を離れ京に上ろうとするとき、老僕の八介が訪ねてきた。 八介は大石に付き従って京に行きたいが、この年ではそれもかなわない、何か形見の品がいたたげないだろうか、と言った。 大石はあらかたの荷物を既に京に送っていたので形見にするものもなく、仕方なしに金子を八介に渡すことにした。 だが大石のこの行動に対し八介は、金子のどこが形見なんだと腹を立てる。 そこで大石は紙をひろげて墨で絵を描いて、これを形見とした。その絵は若き日の大石が八介と吉原に遊びに行ったときの二人の様子を描いたものだった。 「これに勝る形見はない」と八介は喜び、泣いて暇乞いをして去っていった。 なお、『近世畸人伝』には「寺井玄渓」、「小野寺秀和妻」という話も載っており、前者は藩医の寺井玄渓が盟約に加わるのを大石に断られる話、後者は小野寺十内とその妻の心温まる書状の話でいずれも史実に基づく。
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