大石と新幹線とは? わかりやすく解説

大石と新幹線

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 05:58 UTC 版)

大石重成」の記事における「大石と新幹線」の解説

第一高等学校経て1930年昭和5年)、東京帝国大学工学部土木工学科卒業新幹線計画への追い風となった鉄道技術研究所創立50周年記念講演会企画した篠原武司とは同期である。 大石第二次大戦終戦前の1939年昭和14年8月大臣官房幹線調査課新設され、ここで車両担当島秀雄とともに大石線路担当として弾丸列車計画にかかわる。 戦後は、線路課長土木課長東京鉄道管理局長を経て1957年1月から北海道支社長/総支配人となっていたが、島秀雄技師長の要請二つ返事了承し本社戻って同年7月29日発足した幹線調査室室長となる。これは格下げにも見え異例の人事で、発足時スタッフは、遠藤二(元仙台鉄道管理局長)、加藤一郎(のちの新幹線支社長)、角本良平中公新書東海道新幹線』の著者その後国鉄新幹線総局営業局長・同監査委員など)などわずかに5名であった大石は、新幹線計画資料作るため、部下とともに東京大阪間の調査開始した1959年昭和34年4月13日東京・大阪間線路増設工事運輸大臣認可下り4月18日幹線調査室廃して新幹線局(局長遠藤二)を設置し幹線調査事務所廃して東京幹線工事局設置1960年昭和35年4月11日新幹線局が総裁直属機関新幹線総局になる。大石は、新幹線担当常務理事かつ新幹線総局長として強大な権限与えられ、これ以降新幹線計画用地買収から線路建設工事全般総指揮をとった。新幹線総局は「予算算定から発注まですべて」を独立して決定できたため、本社経理局コントロールできず、「関東軍」の異名をとるに至る。 新幹線建設は、当初から予算不足懸念されていたが、高度経済成長に伴うインフレ用地買収設計協議にともなう出費膨張から、いよいよ予算足りなくなっていった。1963年昭和38年3月国会で工事補正予算認められ1ヶ月後に、まだ900億円近く不足していると報じられ政治的事情絡んで新幹線開業翌年に見ながら、十河総裁5月18日任期満了再任されずに総裁退任そのあとを追うように、5月31日副総裁安孫子豊、技師長の島秀雄とともに総局長の大石も、予算不足責任引き受けて退官した。 こうして十河、島、大石新幹線建設から身を引いたが、一番の問題であった予算確保かなったため、新幹線建設そのまま石田礼助総裁藤井松太郎技師長の下で進められオリンピック開催直前1964年昭和39年10月1日営業運転開始こぎつけた開業後の成功により、新幹線建設日本のみならず全世界から称賛されることとなる。1966年には、新幹線企画開発建設により鉄道輸送進歩多大な寄与をしたとして大石は島らとともにスペリー賞(en:Elmer A. Sperry Award)を受賞している 東海道新幹線開業20周年にあたる1984年昭和59年10月25日鉄建建設社長在職中心筋梗塞のため東京都自宅死去

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