大浦政信とは? わかりやすく解説

大浦政信

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/12/14 08:10 UTC 版)

 
大浦 政信
大浦政信像
時代 戦国時代
生誕 明応6年(1497年
死没 天文10年6月9日1541年7月2日
氏族 大浦氏
父母 父:大浦光信(祖父とも)
為則守信
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大浦 政信(おおうら まさのぶ)は、戦国時代武将大浦光信の子または孫[1]

略歴

天文10年(1541年)、三味線河原の戦いで和徳城を攻め城主・小山内満春を討ち取るも、満春の子・永春が加勢し盛り返されて、大浦方は敗れて政信は家臣・森岡為治と共に討ち取られた。

なお津軽家の公称系図では、政信が摂関家近衛尚通と大浦光信の長女・阿久の間にできた子とし、以来本姓が源氏(清和源氏)から藤原氏に変わったとされる。

脚注

  1. ^ 弘前市史において大浦盛信の娘婿と記載。

参考文献

  • 『弘前市史・通史編2』弘前市、2002年6月28日。 




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