津軽と南部
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/11/13 08:35 UTC 版)
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津軽と南部(つがるとなんぶ)は、津軽地方と南部地方の地域呼称であるが、この記事では主に青森県内で長年続いていた津軽と南部の対立について取り上げる。
津軽と南部の区分
津軽地方(つがるちほう)とは、現在の青森県西部を指して言う地域呼称。 藩政時代に津軽氏が支配した領域(弘前藩と黒石藩)に相当する。
一方、南部地方(なんぶちほう)は、江戸時代に南部氏の所領だった地域で、陸奥国(1868年まで)に位置し、現在の青森県東部と岩手県中部ならび北部、秋田県の一部にまたがっていた。現代ではやや狭く、青森県南東部と岩手県中部ならび北部を指すことが多い。
中世以降
南部氏は戦国時代には現在の青森県全域と岩手県中部ならび北部を所領としており、領内では南部一族同士の紛争が相次いでいた。南部一族である大浦氏は、南部信時によって津軽地域に配置され、津軽に基盤を置く土豪であった。
南部右京亮こと大浦為信(のちの津軽為信)は、南部九戸氏と手を結び、津軽にいた同じ南部系豪族を滅ぼし津軽を支配下に置いた。盛岡藩藩祖である南部信直は大浦為信に対抗しようとしたが、南部信直に反抗的な南部櫛引氏(現・八戸市)、南部七戸氏(現・七戸町)、南部九戸氏(現・二戸市)が従わなかったことで軍を派遣できなかった。その間に大浦為信は外ヶ浜を制圧、津軽一統を成し遂げた[1]。
その際に南部氏重臣で、盛岡藩初代藩主となる南部利直の祖父にあたる石川高信らが討たれたとの説[2]もあるが、三戸南部の資料ではこの時には死なずに生き延び、のちに病死したと伝えている[3]。
その後、大浦氏は津軽氏と名乗り豊臣政権から大名として認められ、南部領より独立した。徳川家康の時代に入ってから為信は家康に属して関ヶ原の戦いに参陣し、津軽氏は江戸時代も大名弘前藩として生き抜いた。
以降、弘前藩と盛岡藩は犬猿の仲となり、双方の対立が始まった。江戸時代にはヒノキ材の伐採目当てで越境した領民を捕らえて殺した檜山騒動が起こっている。(詳細は檜山騒動を参照)また江戸後期には相馬大作事件の様に、盛岡藩の藩士が弘前藩主津軽寧親を暗殺しようとした事件も起きた。(詳細は相馬大作事件を参照)
一方の南部家内においても、幕府の裁定で盛岡藩から独立した八戸藩に逆恨みをした盛岡藩士により、初代八戸藩主直房と2代八戸藩主直政が暗殺される事件が起き、以降、八戸藩は独自路線を歩むこととなる[4][5]。
また戊辰戦争では、互いに幕府側の奥羽越列藩同盟に加盟していたが、弘前藩が先に新政府軍に恭順する。その後、盛岡藩が降伏するが、降伏が受け入れられた後に弘前藩が盛岡藩に出兵する野辺地戦争でも遺恨を残している。(詳細は野辺地戦争を参照)八戸藩は、藩主である南部信順が薩摩藩からの養子であったこともあり、元々新政府側の姿勢を見せるなど中立的な立場をとっていた。「盛岡藩には引きずられない」という意識から八戸藩は不戦に徹し、一人の死傷者も出さなかった。結果、列藩同盟に積極的でなかったとされ、弘前藩と同様に八戸藩は朝敵扱いをされず、盛岡藩になされたような減封・転封等の処罰は行われなかった[6]。
明治2年、盛岡藩への戊辰戦争の戦後処理として、南部盛岡藩は津軽藩取締下に置くべきことが決定した。これが新政府より盛岡に伝えられるや、領民は猛然と反発し、取り消されなければ自ら陸奥三郡を焼き払うと新政府に嘆願した。さらに盛岡藩士に不穏の動きがあり、もはや津軽藩による南部藩取締は実現しないと判断された。結局、明治3年2月、大関藩取締となることで決着した[7]。(詳細は盛岡藩#明治維新を参照)
明治4年9月、府県統合のため、弘前、黒石、七戸、八戸、斗南の5県が統合し、弘前県となる。旧八戸藩や、敵対的関係であった旧盛岡藩の旧津軽藩への統合であるが、その陰には旧斗南藩による中央政庁への工作があったとされる。斗南藩は酷寒の下北半島を領地としていたため、経済状態は著しく悪く、入植した藩士は領民が口にしない野草まで食ったために「毛虫のごとし」と蔑まれるほどであった。このために、比較的経済状態の良い旧津軽藩との統合を目指したものである。また、斗南藩はもともと会津の者であり、津軽藩と盛岡藩の確執には無関係であったことも、統合を推進するのに好都合であった[8]。結果、 八戸県大参事と斗南県小参事による5県合併案が政府に建言されたことで合併が実現した。
同年9月5日に熊本藩出身の野田豁通(当時25歳)が弘前県大参事に任命されたが、野田の県庁移転提案を受け入れた政府は同月23日には県庁を青森町に置くこととし(弘前藩の出張所であった青森御仮屋を県庁舎とした)、県名も青森県に改めた[9]。
藩境塚
馬門(南部側、野辺地町)と狩場沢(津軽側、平内町)は、いずれも奥州街道沿いで隣接する集落で、距離にしておよそ1kmほどのへだたりでしかない。しかしこの間に藩境があり、目印に藩境塚が設けられている。藩境塚は、旧藩境と方言の境界が一致している日本唯一の例であり、今日でもこの二つの集落は市町村が異なるので、小学生は必ず別の小学校に通うことになるため、方言の境界が守られるのである[10]。
現在
青森県では県の庁舎や県立高校を除いた県立大学、県立病院、県立文化施設、県立福祉施設、県立スポーツ施設の配置が、2024年現在、県庁所在地である青森市に19施設と集中している。この状況に象徴されるような「青森県の行政資源が青森市に集中している」という問題を「津軽と南部の確執」の文脈で捉える考え方もある[11]。しかし、青森市を「津軽」と同一視することに対しては異論もある[12]。
青森市は確かに旧津軽郡の領域に含まれるが、津軽郡としては辺境と言うべき位置にある。一旦弘前県として統合されたものが半月余りで青森県に変更されたという上述の経緯も、八戸と弘前のほぼ中間にあたる「県域の中央」への移転という趣旨であり、それは「津軽と南部の境界付近」という趣旨と考えることもできる。
青森市を「境界」とする考え方が妥当だと仮定するならば、行政資源の集中を「津軽と南部の確執」の文脈で捉えることの是非は「南部地方」と「青森市以外の津軽地方」を対比して考えねばならないことになる。この場合、たとえば上述の県立施設の配置については、青森市以外の津軽地方に3施設、南部地方に3施設と比較的均等ということになり、問題は単なる「県庁所在地への一極集中」に過ぎないことになる。
関連項目
脚注
- ^ その後も、南部櫛引氏、南部七戸氏、南部九戸氏は浅水城や伝法寺城に攻め入るなど、南部信直への抵抗を続けた。
- ^ 民間記録である『永禄日記』。しかし、これは伝聞であるとされる。
- ^ 『奥南落穂集』によると天正8年(1580年)石川城にて病死、『祐清私記』によると天正9年2月21日津軽で病死であるとされている。
- ^ 『八戸藩二代直政公御家督之節御礼御奉書』より。
- ^ 3代盛岡藩主重信の子、通信を3代八戸藩主に迎えたが、以後、新たな姻戚関係は結ばれなかった。支藩ではなく独立した藩であったこと、藩主暗殺事件や姻戚関係が希薄だったこともあり、八戸藩には盛岡藩を「本家」と見る雰囲気は希薄であった。
- ^ 『幕末とうほく余話』無明舎出版、2006年10月20日。
- ^ 六ヶ所村史編纂委員会編『六ヶ所村史 中』p.77
- ^ 葛西富夫『斗南藩史』斗南会津会刊, 昭和46年
- ^ 広報あおもり 2013年5月1日号 青森タイムトラベル 第5回 「県都『誕生』への道のり」
- ^ 『日本のことばシリーズ2 青森県のことば』編者代表平山輝男, 青森県編者佐藤和之, 明治書院, 平成15年6月, p.47
- ^ たとえば、司馬遼太郎『街道をゆく』の連載第68回『野辺地湾』
- ^ “「小南部領の青森県への編入」に関する事実関係”. 2024年5月19日閲覧。
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