青森県の成立
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明治4年7月14日(1871年8月29日)に廃藩置県の詔が発せられ、現在の青森県域には、旧藩を引き継いだ弘前県(弘前藩)、黒石県(黒石藩)、斗南県(斗南藩)、七戸県(七戸藩)、八戸県(八戸藩)が成立したが、同年9月4日にはこれら5県と北海道渡島半島に成立していた館県(館藩)の6県が合併し、弘前県が成立している。この時点での県庁は弘前に置かれている。 しかし、翌日の9月5日に野田豁通(のだ ひろみち)が初代県大参事に任命され、19日後の9月23日に県庁を弘前から青森に移転し、県名を青森県に変更することが決定されている。県権令として菱田重禧が任命された。今日の青森県庁に当たる民事堂で県議会が開かれ、この本庁以外に、弘前・福山・田名部・八戸・七戸・五戸に支庁が置かれた。翌年の明治5年(1872年)には、戸籍編成のため県内各地は区・小区に分けられ、翌1873年(明治6年)には行政の単位として大区(区長)・小区(正副戸長)が設けられ、行政事務を行った。青森県内には大区が10個設置され、それぞれ大区会所が設置された。 6県の合併について、弘前県・黒石県は旧津軽氏領であり、七戸県・八戸県は旧南部氏領となっており、両氏は津軽氏の南部氏からの独立から始まり、弘前藩主暗殺未遂事件や野辺地戦争など敵対が続いていたが、廃藩置県後に全国で最も早く合併された。この合併を画策した人物は、八戸県大参事の太田広城と斗南県小参事の広沢安任で、両人の連名で政府に対し5県合併案が8月13日に建言されており、内務卿大久保利通をはじめ明治政府高官による事情聴取の結果、9月4日に館県も含めた6県の合併令達に至っている。この怨恨を無視した合併に至った背景には、津軽と南部の敵対とは無縁の斗南藩(会津藩の移封先)の存在も少なからぬ影響を与えていると思われるが、そもそも両県とも穀倉地帯になりうる平野部が少ない上にやませの常襲地帯で冷害が頻発しており、特に斗南県に至っては亡命藩がそのまま県に移行したばかりで困窮の極みにあったことから、過去の因縁に囚われている余裕がなかったというのが実情であった。それに対し、弘前県は1県で他4県の石高合計の3倍以上(実高ベース)という財政力を有しており、八戸・斗南両県とは比べ物にならない大県で、その上に弘前藩は戊辰戦争で明治政府軍に与していたこともあって、弘前県との合併により明治政府からの覚えも高く、両県の救済に有利と考えたのではないかといわれている。この合併工作が、廃藩置県により成立した全国3府302県の削減を目論んでいた明治政府との思惑と合致したものだったことから、早々に実現されたものと考えられる。 また、県庁移転について、当時県内で突出した都市だった弘前から一港町に過ぎなかった青森に移転されたものであるが、野田が県大参事に任命された折、大蔵省に対し21項目に及ぶ伺を立てており、その1項目目にある県庁の位置についての意見が結果的に採用されたものである。その内容は、6県合併による県土は現在の青森県域に北海道渡島半島の一部と岩手県二戸地方が含まれたものであり、弘前県庁では地理的位置が偏っていること、弘前県庁では藩政時代の旧弊に囚われてしまうこと、青森の港湾の将来性が見込まれること、となっている。これは、野田が戊辰戦争時に当地に半年近く滞在しており地勢に明るかったことから、着任早々にも拘らずこれだけの見解を持っていたと言われている。 なお、当事者であるはずの弘前において、6県合併や県庁移転について、特に関知していたような記録はなく、穏便に進められている。しかし、県庁についてはその後、幾度か弘前移転に関する陳情がなされているものの、そのまま現在に至っている。
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