尊皇開国とは? わかりやすく解説

尊皇開国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/22 02:07 UTC 版)

新発田藩」の記事における「尊皇開国」の解説

勤王新発田」とも称されるが、十代藩主直諒公の記した報国説』『開国説』からであるといわれる。「尊皇開国」論であり、水戸藩西国諸藩の「尊皇攘夷」とは異な開明派の勤王思想である。直諒公隠居後皇族公家の間でも読まれたという。山崎闇斎崎門学派大義名分の心を述べたのである。これらの著作一般に読まれるようになり、藩内に勤王根を張る至った相馬作右衛門の上申書にはこれまで皇室ないがしろにした将軍家の罪を上げ先祖家康)がいかに勲功があっても、子孫間違ったことをするのなら、徳川家臣節尽くす必要はないとし、武力で自らの権勢保持しようとするものに付け大義名分失するとした。藩儒寺尾文之進は5月30日の総登城の際、王事尽くすことは歴代藩侯遺訓である、全藩、城を死すべきである、勝敗は問うところではないと主張。しかし、藩論勤王殉じて玉砕する方針は採らなかった。 いわゆる正義党と違うのは、藩士領民にとって、「勤王の藩」に尽くすことが大義名分なのであって勤王を藩を超えた価値とし、ゆくゆくは藩を解消すべきと考え正義党価値観危険思想であった。方義隊の新保三郎戦後、同じ隊だった二階堂保則と口論している。物頭佐藤右衛門新保を「正義党ではあるけれども、御家への忠節が本である人間で、一通り正義党仲間には入らず尽力した者である」と評価した新保庄屋左衛門庄屋たちは進んで勤王思想学び、藩の大事に進んで貢献した。 (以上)

※この「尊皇開国」の解説は、「新発田藩」の解説の一部です。
「尊皇開国」を含む「新発田藩」の記事については、「新発田藩」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「尊皇開国」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「尊皇開国」の関連用語

尊皇開国のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



尊皇開国のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの新発田藩 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS