尊皇開国
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「勤王の新発田」とも称されるが、十代藩主直諒公の記した『報国説』『開国説』からであるといわれる。「尊皇開国」論であり、水戸藩や西国諸藩の「尊皇攘夷」とは異なる開明派の勤王思想である。直諒公隠居後、皇族や公家の間でも読まれたという。山崎闇斎の崎門学派の大義名分の心を述べたものである。これらの著作が一般に読まれるようになり、藩内に勤王の根を張るに至った。 相馬作右衛門の上申書にはこれまで皇室をないがしろにした将軍家の罪を上げ、先祖(家康)がいかに勲功があっても、子孫が間違ったことをするのなら、徳川家に臣節を尽くす必要はないとし、武力で自らの権勢を保持しようとするものに付けば大義名分を失するとした。藩儒寺尾文之進は5月30日の総登城の際、王事に尽くすことは歴代藩侯の遺訓である、全藩、城を枕に死すべきである、勝敗は問うところではないと主張。しかし、藩論は勤王に殉じて玉砕する方針は採らなかった。 いわゆる正義党と違うのは、藩士、領民にとって、「勤王の藩」に尽くすことが大義名分なのであって、勤王を藩を超えた価値とし、ゆくゆくは藩を解消すべきと考える正義党の価値観は危険思想であった。方義隊の新保長三郎は戦後、同じ隊だった二階堂保則と口論している。物頭佐藤八右衛門は新保を「正義党ではあるけれども、御家への忠節が本である人間で、一通りの正義党の仲間には入らず、尽力した者である」と評価した。新保や庄屋九左衛門ら庄屋たちは進んで勤王思想を学び、藩の大事に進んで貢献した。 (以上)
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