尊王攘夷運動・倒幕運動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/14 15:07 UTC 版)
嘉永6年(1853年)の黒船来航以来日本も長州藩も揺れ動くが、農民の身分ながら若き吉富も親戚の林勇蔵など尊王攘夷派の影響を受け国事に関心を持ったという。元治元年(1864年)3月には長州藩の攘夷に対する外国の報復(下関戦争)が予想されていたため馬関攘夷費として藩札85貫目を長州藩に献じて士籍に編入されている。しかし、文久3年(1863年)11月に密航してイギリスを見てきた伊藤博文と井上馨は日本の国力では攘夷は無理だと悟って倒幕開国派に転じ、元治元年6月に下関戦争を防ぐために長州に帰還、井上から国際情勢を聞いた吉富も倒幕開国派に転じている。 井上の工作も空しく下関戦争は勃発して長州藩の敗北に終わり、続く江戸幕府による第一次長州征討で長州藩は降伏、俗論党(保守派)が長州藩の実権を握り、井上は俗論党に襲撃されて重傷を負い、吉富家に身を寄せていた周布政之助は吉富屋敷で切腹している。俗論党が一旦は長州藩の実権を握ったが、高杉晋作ら長州正義派(改革派)はすぐに立ち上がり奇兵隊など長州藩諸隊を率いて巻き返す(功山寺挙兵)。高杉に軍資金の援助を求められた吉富は金を出すが、そればかりでなく自ら鴻城軍を組織して長州藩諸隊に加わる。 鴻城軍の総帥には井上を担ぎ、吉富自身は吉野の変名を用いて鴻城軍の参謀兼会計を務める。この時山口に寄せてきた俗論党軍は主君毛利敬親を擁していたため、主君を相手にすることで動揺した井上に対して吉富は毅然と俗論党との戦いを主張している。高杉ら長州正義派は慶応元年(1865年)に政争に勝利し長州藩の実権を握り、引き続いて起きた翌慶応2年(1866年)の第二次長州征討でも吉富は鴻城軍を率いて戦っている。長州閥内で吉富はこの活躍によって出身地名から矢原将軍と呼ばれるようになっている。 戊辰戦争では吉富の名は出てこないが、26町歩の庄屋の家長として地元を離れて戦乱に参加することはできなかったのであろう。吉富は後日、戊辰戦争に参加しなかったことを振り返り「あのとき、自分に田畑さえなければ」と述懐している。
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