尊秀
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/20 00:01 UTC 版)
もと天台宗で真言を兼ねた僧。豊前国文司城(もじ — )主奴留湯(ぬるゆ)主水正の子。長門国赤間関阿弥陀寺の住持で、黒田長政が豊前中津城主であったときより愛遇していたが、あるとき阿弥陀寺を出て中津に移り、慶長5年ごろ、長政に従って福岡に移る。福岡城築城の時は地鎮の修法を勤め、その後福岡城本丸祈念櫓で長日の祈り(国家安全の祈念など)を命じられた。その後、空与の跡をついで智福寺に住まい、智福寺を真言宗の寺として吉祥院と名付け、吉祥院を警固神社の北に移している。また一説には、慶長13年(1608年)まで常に福岡城祈念櫓で長日の祈りをしたのち、同年警固神社に宮司坊舎を建て、その住持となったという。寛永2年(1625年)8月24日入寂。尊秀は詩文に秀でていたため、長政から嫡男・黒田忠之や家臣の子弟の教育を任されるなどした。
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