尊皇の宗政
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黒船来航後の混乱にあった安政年間、尊皇攘夷の機運が高まるなかで勤皇僧として著名であった周防国の月性を重役に登用し、広如自身も朝権への傾倒を強めていった。文久3年(1863年)には朝廷に10,000両を献納し、宗派全体に尊皇攘夷の徹底を諭す『御遺訓御書』を出している。 『御遺訓御書』には、夫(それ)皇国に生をうけしもの、皇恩を蒙らさるはあらす、(中略)是によりてわか宗においては王法を本とし仁義を先とし神明をうやまひ人倫を守るへきよし かねてさためおかるる所なり・・・とあり、文中の「王法為本・仁義為先」は明治以後の西本願寺教団が国家神道に迎合していく姿を象徴する言葉となった。 元治元年(1864年)には亀山天皇陵の修復、同年の禁門の変では幕軍に追われた長州藩士数十名を門内に匿って逃がすなどしている。幕府は西本願寺の勤皇姿勢に警戒を強め、長州藩士を匿ったことを理由に会津藩に命じて新撰組屯所を壬生から本願寺門内に移させている。
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