会津討伐と世良暗殺
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その後は薩摩の黒田清隆、長州の品川弥二郎に代わり、薩摩の大山格之助と共に新政府の奥羽鎮撫総督府下参謀となり、戊辰戦争においては、同年3月、会津征伐のために総督・九条道孝以下五百余名と共に派遣され、3月23日、仙台藩の藩校養賢堂に本陣を置いた。会津藩に同情的で出兵を躊躇う仙台藩に対して強硬に出兵を促し、また仙台藩士を嘲り、傍若無人な振る舞いもあるなど、次第に周囲からの反感を高めていく。 閏4月12日、仙台藩・米沢藩による会津救済嘆願があったものの、世良ら総督使はあくまで武力討伐せよという強硬姿勢をとったため、会津救済の可能性は失われた。そのため、東北諸藩は薩長の軍門に下り会津征伐に向かうか、奥羽越列藩同盟の名において薩長に宣戦布告するかの選択を迫られる状態となった。 さらに福島城下の金沢屋に宿泊した世良が当時新庄にいた下参謀・大山宛てに閏4月19日(6月9日)に記した密書(「奥羽皆敵ト見テ逆撃之大策ニ至度候ニ付」と書かれていた)を、送付の依頼を受けた福島藩士・鈴木六太郎を通じて入手した仙台藩士・瀬上主膳、姉歯武之進はその内容に激昂し、世良の暗殺実行を決意する。また世良の暗殺計画は、閏4月14日(6月4日)には仙台藩主席奉行・但木土佐らの承認を受けていた。 閏4月20日(6月10日)未明、世良修蔵と報国隊の勝見善太郎は金澤屋で就寝中に、姉歯武之進・田辺覧吉・赤坂幸太夫・松川豊之進・末永縫殿之允・大槻定之進の仙台藩士6名、遠藤条之助・杉沢覚右衛門・鈴木六太郎の福島藩士3名、福島町の目明かし浅草屋宇一郎とその手先14 - 15名の合計24 - 25名に襲われた。2階から飛び降りた際に瀕死の重傷を負った上で捕縛された世良は、同日朝、勝見と共に阿武隈川河原で斬首され、遺体は阿武隈川へ投げ捨てられた。 妻・千恵との間に一女があったが幼くして亡くなっており、子孫は絶えている。 福島稲荷神社の境内に官修墳墓が建てられており、毎年慰霊祭が行われている。 山口県周防大島町椋野に世良修蔵の招魂碑が建てられている。
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