会津討伐と世良暗殺とは? わかりやすく解説

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会津討伐と世良暗殺

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/19 09:44 UTC 版)

世良修蔵」の記事における「会津討伐と世良暗殺」の解説

その後薩摩黒田清隆長州品川弥二郎代わり薩摩大山格之助と共に新政府奥羽鎮撫総督府下参謀となり、戊辰戦争においては同年3月会津征伐のために総督九条道孝以下五百余名と共に派遣され3月23日仙台藩藩校養賢堂本陣置いた会津藩同情的出兵躊躇う仙台藩に対して強硬に出兵促し、また仙台藩士を嘲り傍若無人な振る舞いもあるなど、次第周囲からの反感高めていく。 閏4月12日仙台藩米沢藩による会津救済嘆願があったものの、世良総督使はあくまで武力討伐せよという強硬姿勢をとったため、会津救済可能性失われた。そのため、東北諸藩薩長軍門下り会津征伐に向かうか、奥羽越列藩同盟の名において薩長宣戦布告するかの選択迫られる態となった。 さらに福島城下の金沢屋に宿泊した世良当時新庄にいた下参謀大山宛てに閏4月19日6月9日)に記した密書(「奥羽皆敵ト見テ逆撃之大策ニ至度候ニ付」と書かれていた)を、送付依頼受けた福島藩士・鈴木太郎通じて入手した仙台藩士・瀬上主膳姉歯武之進その内容激昂し世良暗殺実行決意する。また世良暗殺計画は、閏4月14日6月4日)には仙台藩主奉行但木土佐らの承認受けていた。 閏4月20日6月10日未明世良修蔵報国隊の勝見善太郎金澤屋で就寝中に姉歯武之進田辺覧吉・赤坂幸太夫・松川豊之進・末永縫殿之允・大槻定之進の仙台藩士6名、遠藤条之助・杉沢右衛門鈴木太郎福島藩士3名、福島町目明かし浅草屋宇一郎その手14 - 15名の合計24 - 25名に襲われた。2階から飛び降りた際に瀕死の重傷負った上で捕縛され世良は、同日朝、勝見と共に阿武隈川河原斬首され、遺体阿武隈川投げ捨てられた。 妻・千恵との間に一女があったが幼くして亡くなっており、子孫絶えている。 福島稲荷神社境内官修墳墓建てられており、毎年慰霊祭が行われている。 山口県周防大島町椋野世良修蔵招魂碑が建てられている。

※この「会津討伐と世良暗殺」の解説は、「世良修蔵」の解説の一部です。
「会津討伐と世良暗殺」を含む「世良修蔵」の記事については、「世良修蔵」の概要を参照ください。

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