会津領民の請願書
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明治元年(1868年)10月、会津戦争の敗戦後、容保・容大父子は東京に護送され謹慎となった。会津領民たちは驚愕し、悲しみと失望に暮れ、容保を救うべく「御赦免御帰城」の請願書を、会津においては民政局、東京に出ては太政官たちに多く提出した。この請願書運動は翌年11月に容大が陸奥斗南へ移封となった後も続けられた。『会津史談会誌』にはその中から2通を資料として掲載している。 一つは、百姓惣代として東谷地村、上西蓮村など5か村、若松町人惣代として4名の連名からなり、内容には、数百年の御恩をうけ一途な直心より訴えること、悲しみに沈み日夜寝食を絶つ様子や、大勢の民衆が訴え出ることを代表の者が押し止め申し合わせの上での請願書であることなどが書かれ、領内の民の安堵のためにも何卒御領主の御帰城をお許し下さいますようにと、百姓町人惣代の者の泣血の嘆願としている。 二つ目は、岩代國耶麻郡木曾組を筆頭に6ヶ村の連名からなり、容保や歴代藩主がこれまで領民のために行ってきた政策を34条(高齢者・病人・育児への福祉制度や、天明天保を始めとする飢饉や不作の年の援助など)書き連ねた上で、「御領主の儀は二百余年の事につき身に染みて片時も慕う気持ちを忘れずにいます。何卒哀憐の御沙汰をもって直ちに御帰城になりますよう」と訴えている。
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