奥羽越列藩同盟の成立
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慶応4年(1868年)1月17日、鳥羽・伏見の戦いで勝利した新政府は、東北地方の大国である仙台藩の藩主・伊達慶邦に会津藩の追討を命令した。しかし仙台藩は行動しなかった。 2月25日、庄内藩は使者を新政府に派遣した。新政府は徳川慶喜あるいは会津藩に対する追討軍への参加を要求し旗幟を鮮明にすることを迫ったが、使者は軍への参加を拒絶した。会津藩も嘆願書で天皇への恭順を表明したが、新政府の権威は認めず謝罪もせず武装も解かなかった。これらの行動を会津の天皇への“武装・恭順”なのだと主張する説もある。 3月22日、新政府への敵対姿勢を続けていた会津藩および庄内藩を討伐する目的で、奥羽鎮撫総督府および新政府軍が仙台に到着した。主要な人物としては総督・九条道孝、副総督・澤為量、参謀・醍醐忠敬、下参謀の世良修蔵(長州藩)と大山綱良(薩摩藩)がいる。3月29日、奥羽鎮撫総督府は、仙台藩・米沢藩をはじめとする東北地方の諸藩に会津藩および庄内藩への追討を命じた。 4月19日、藩主・伊達慶邦が率いる仙台藩の軍勢は会津藩領に入り、戦闘状態になった。一方で仙台藩は3月26日、会津藩に降伏勧告を行い、4月21日、会津藩は仙台藩に降伏した。降伏の条件は、会津藩が武装を維持し新政府の立ち入りを許さない条件で松平容保が城外へ退去し謹慎することおよび会津藩の削封、という内容だった。しかし数日後、会津藩は仙台藩に合意を翻す内容の嘆願書を渡し、これを見た仙台藩は会津藩の説得をあきらめた。 4月23日、奥羽鎮撫総督府副総督・澤為量および下参謀・大山綱良が率いる新政府軍は、庄内藩を攻撃するため仙台から出陣した。しかし庄内藩は新政府軍を撃退し、閏4月4日、庄内藩は天童城を攻め落とした。 4月19日(閏ではなく閏4月1日以前の事件)、関東地方で大鳥圭介らの率いる旧幕府軍が宇都宮城を一時占領した。この報が東北地方に伝わると、仙台藩では会津藩・庄内藩と協調し新政府と敵対すべきという意見が多数となった。閏4月4日、仙台藩主席家老・但木成行の主導で奥羽14藩は会議を開き、この状態での会津藩・庄内藩への赦免の嘆願書を提出した。要求が入れられない場合は新政府軍と敵対し排除するという声明が付けられていた。会津藩・庄内藩は恭順の姿勢を見せていなかったため、閏4月17日、新政府は嘆願書を却下した。奥羽14藩はこれを不服として征討軍の解散を決定した。 詳細は「白石会議」を参照 閏4月20日未明、仙台藩と福島藩は新政府軍が庄内藩を攻撃するため出陣していった留守をつき、奥羽鎮撫総督府下参謀の世良修蔵と報国隊の勝見善太郎を福島の金澤屋で捕縛して斬首し、遺体を阿武隈川へ投げ捨てた。首は白石城へ送られ、但木土佐は当初児捨川へ首を投げ捨てるように命じたが寺へ葬られた。同日昼、仙台藩と福島藩は、両藩の裏切りを知らずに金澤屋へ帰宿した長州藩士の松野儀助を捕縛・斬首して金品を奪い、同日夜に世良の馬丁の繁蔵も長楽寺で背後から斬殺した。閏4月21日、福島町の江戸口付近を醍醐参謀らと共に北行中だった醍醐参謀附士の長州藩士野村十郎を仙台藩士が背後から斬殺し、遺体を阿武隈川へ投げ捨てた。同参謀附士の長州藩士中村小次郎も白河口の戦いで重傷を負って籃輿で福島へ向かう途中に伏拝坂付近で左右から刺殺された。さらに仙台藩は、九条総督と醍醐参謀を仙台城下に軟禁した。 閏4月21日、薩摩藩士鮫島金兵衛が軍監として羽州への援軍の盛岡藩兵と共に七北田宿まで来ると、仙台藩は盛岡藩の進軍を遮った。仙台藩目付の熊谷齋宮と鈴木直記は、盛岡藩兵の隊長沢田斉安寧と留守居遠山礼蔵明則に、鮫島は薩摩藩士なので奥羽のために宜しくない者だから捕縛して引き渡すようにと伝えたが、盛岡藩が断って物別れに終わった。その後、仙台藩から引き続き盛岡藩兵の進軍を遅延させる旨の手紙が届いたので、鮫島金兵衛は九条総督と相談しようと出発したところを、待ち伏せていた仙台藩小人組の5人に殺害され、路傍に埋められた。仙台藩と戦端を開くのを避け、盛岡藩兵は撤兵した。 閏4月22日、薩摩藩士内山伊右衛門綱次、その従者の太郎、薩摩藩士西田十太郎の3人が、弾薬など7駄を羽州へ運ぶ途中に大深沢で、但木土佐の命令を受けた仙台藩士の荒井平之進、橋本豊之進、狭川公平と、小人組の松田三四郎、小田五郎の5人に待ち伏せされて斬殺された。首は荒井が仙台まで持ち帰り、七北田刑場へ捨てた。 これと並行して仙台藩・米沢藩を中心に、会津藩・庄内藩赦免の嘆願書のための会議を新政府と敵対する軍事同盟へ改変させる工作が行われた。赦免の嘆願書は新政府によって拒絶されたので天皇へ直接建白を行う方針に変更された。閏4月23日、新たに11藩を加えて白石盟約書が調印された。さらに後に25藩による奥羽列藩盟約書を調印した。会津・庄内両藩への寛典を要望した太政官建白書も作成された。奥羽列藩同盟には、武装中立が認められず新政府軍との会談に決裂した長岡藩ほか新発田藩等の北越同盟加盟6藩が加入し、計31藩によって奥羽越列藩同盟が成立した。なお、会津・庄内両藩は列藩同盟には加盟せず会庄同盟として列藩同盟に協力した。 ここに旧幕府とも新政府とも異なる軍事同盟(地方政権)が、東北地方・北海道・新潟に誕生した。しかし、これは天皇への嘆願目的の@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}各藩のルーズな連合であり、[要出典]また、恭順を勧めるための会議が途中で反新政府目的の軍事同盟に転化したため、本来軍事敵対を考えていなかった藩など各藩に思惑の違いがあり、統一された戦略を欠いていた。
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