奥羽越列藩同盟の成立とは? わかりやすく解説

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奥羽越列藩同盟の成立

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 02:19 UTC 版)

戊辰戦争」の記事における「奥羽越列藩同盟の成立」の解説

慶応4年1868年1月17日鳥羽・伏見の戦い勝利した新政府は、東北地方大国である仙台藩藩主伊達慶邦会津藩追討命令した。しかし仙台藩行動しなかった。 2月25日庄内藩使者新政府派遣した新政府徳川慶喜あるいは会津藩対す追討軍への参加要求し旗幟鮮明にすることを迫ったが、使者は軍への参加拒絶した会津藩嘆願書天皇への恭順表明したが、新政府権威認めず謝罪もせず武装も解かなかった。これらの行動会津天皇への“武装恭順”なのだと主張する説もある。 3月22日新政府への敵対姿勢続けていた会津藩および庄内藩討伐する目的で、奥羽鎮撫総督府および新政府軍仙台到着した主要な人物としては総督九条道孝副総督澤為量参謀醍醐忠敬下参謀世良修蔵長州藩)と大山綱良薩摩藩)がいる。3月29日奥羽鎮撫総督府は、仙台藩米沢藩はじめとする東北地方諸藩会津藩および庄内藩への追討命じた4月19日藩主伊達慶邦率い仙台藩軍勢会津藩領に入り戦闘状態になった一方で仙台藩3月26日会津藩降伏勧告行い4月21日会津藩仙台藩降伏した降伏条件は、会津藩武装維持し新政府立ち入り許さない条件松平容保城外退去し謹慎することおよび会津藩の削封、という内容だった。しかし数日後会津藩仙台藩合意翻す内容嘆願書渡し、これを見た仙台藩会津藩説得あきらめた4月23日奥羽鎮撫総督府副総督澤為量および下参謀大山綱良率い新政府軍は、庄内藩攻撃するため仙台から出陣した。しかし庄内藩新政府軍撃退し、閏4月4日庄内藩天童城攻め落とした4月19日(閏ではなく閏4月1日以前の事件)、関東地方大鳥圭介らの率い旧幕府軍が宇都宮城一時占領した。この報が東北地方に伝わると、仙台藩では会津藩庄内藩協調し新政府敵対すべきという意見多数となった。閏4月4日仙台藩主家老但木成行主導奥羽14藩は会議開き、この状態での会津藩庄内藩への赦免嘆願書提出した要求入れられない場合新政府軍敵対し排除するという声明付けられていた。会津藩庄内藩恭順姿勢見せていなかったため、閏4月17日新政府嘆願書却下した奥羽14藩はこれを不服として征討軍の解散決定した詳細は「白石会議」を参照4月20日未明仙台藩福島藩新政府軍庄内藩攻撃するため出陣していった留守をつき、奥羽鎮撫総督府下参謀世良修蔵報国隊の勝見善太郎福島金澤屋で捕縛し斬首し、遺体阿武隈川投げ捨てた。首は白石城送られ但木土佐当初児捨川へ首を投げ捨てるように命じたが寺へ葬られた。同日昼、仙台藩福島藩は、両藩の裏切りを知らず金澤屋へ帰宿した長州藩士松野儀助捕縛斬首して金品奪い同日夜に世良馬丁繁蔵長楽寺背後から斬殺した。閏4月21日福島町江戸付近醍醐参謀と共に北行中だった醍醐参謀附士の長州藩士野村十郎仙台藩士が背後から斬殺し、遺体阿武隈川投げ捨てた。同参謀附士の長州藩士中村小次郎白河口の戦い重傷負って籃輿福島へ向かう途中伏拝付近左右から刺殺された。さらに仙台藩は、九条総督醍醐参謀仙台城下に軟禁した。 閏4月21日薩摩藩鮫島金兵衛軍監として羽州への援軍盛岡藩と共に七北田宿まで来ると、仙台藩盛岡藩進軍遮った仙台藩目付熊谷齋宮鈴木直記は、盛岡藩兵の隊長沢田安寧留守居遠山明則に、鮫島薩摩藩士なので奥羽のために宜しくない者だから捕縛し引き渡すようにと伝えたが、盛岡藩断って物別れ終わったその後仙台藩から引き続き盛岡藩兵の進軍遅延させる旨の手紙が届いたので、鮫島金兵衛九条総督相談しよう出発したところを待ち伏せていた仙台藩小人組の5人に殺害され路傍埋められた。仙台藩戦端を開くのを避け盛岡藩兵は撤兵した。 閏4月22日薩摩藩内山伊右衛門綱次、その従者太郎薩摩藩西田十太郎の3人が、弾薬など7駄を羽州へ運ぶ途中に大深沢で、但木土佐命令受けた仙台藩士の荒井平之進橋本豊之進、狭川公平と、小人組松田三四郎小田五郎の5人に待ち伏せされ斬殺された。首は荒井仙台まで持ち帰り七北田刑場捨てた。 これと並行して仙台藩米沢藩中心に会津藩庄内藩赦免嘆願書ための会議を新政府敵対する軍事同盟改変させる工作が行われた。赦免嘆願書新政府によって拒絶されたので天皇直接建白を行う方針変更された。閏4月23日新たに11藩を加えて白石盟約書が調印された。さらに後に25藩による奥羽列藩盟約書を調印した会津庄内両藩への寛典要望し太政官建白書作成された。奥羽列藩同盟には、武装中立認められ新政府軍との会談決裂した長岡藩ほか新発田藩等の北越同盟加盟6藩が加入し、計31藩によって奥羽越列藩同盟成立した。なお、会津庄内両藩は列藩同盟には加盟せず会庄同盟として列藩同盟協力した。 ここに旧幕府とも新政府とも異な軍事同盟地方政権)が、東北地方北海道新潟誕生した。しかし、これは天皇への嘆願目的の@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}各藩ルーズな連合であり、[要出典]また、恭順勧めるための会議が途中で新政府目的軍事同盟転化したため、本来軍事敵対考えていなかった藩など各藩思惑違いがあり、統一され戦略欠いていた。

※この「奥羽越列藩同盟の成立」の解説は、「戊辰戦争」の解説の一部です。
「奥羽越列藩同盟の成立」を含む「戊辰戦争」の記事については、「戊辰戦争」の概要を参照ください。

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