奥羽諸藩の対応―奥羽列藩会議「歎願書」提出
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/15 14:50 UTC 版)
「奥羽鎮撫総督府」の記事における「奥羽諸藩の対応―奥羽列藩会議「歎願書」提出」の解説
奥羽鎮撫総督府の到着後、仙台藩は会津藩境まで出兵したものの、本気で戦うつもりはなく、会津藩の謝罪歎願を奥羽鎮撫総督府に周旋するために、米沢藩とともに会津藩との交渉を優先していた。 再三に渡る交渉の末、閏4月11日に奥羽諸藩を召集した白石会議を開催し、4月12日に仙台藩主伊達慶邦・米沢藩主上杉斉憲が九条総督を訪ね、直々に歎願書三通「会津藩重臣連署」(西郷頼母・梶原平馬・一瀬要人)、「仙米両藩主連署」(仙台藩主伊達慶邦・米沢藩主上杉斉憲)、「奥羽諸藩重臣連署」(仙台藩士坂英力・米沢藩士千坂高雅ら17名)を手渡した。
※この「奥羽諸藩の対応―奥羽列藩会議「歎願書」提出」の解説は、「奥羽鎮撫総督府」の解説の一部です。
「奥羽諸藩の対応―奥羽列藩会議「歎願書」提出」を含む「奥羽鎮撫総督府」の記事については、「奥羽鎮撫総督府」の概要を参照ください。
- 奥羽諸藩の対応―奥羽列藩会議「歎願書」提出のページへのリンク