本宮村の戦い
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三春藩の帰順に先立つ20日、新政府軍は二本松藩攻略に備えて三春藩の北12kmにある小浜を長州藩兵3小隊で占拠していた。本隊は三春にあり、27日には平潟方面軍が到着して合流を果たす。数を倍増させた新政府軍は、二本松領の糠沢(三春の北西30km)と本宮(糠沢の西8km)に二本松藩の兵士が展開していることを知り、大垣藩、三春藩、土佐藩、黒羽藩らの諸隊をまず本宮に向かわせた。しかし、それらの諸藩とは別に薩摩藩3隊と土佐藩2小隊が各自の判断で既に動いており、深夜に糠沢に奇襲を敢行して大勝して二本松藩兵26名を戦死させる。この薩摩藩の奇襲は、本宮へ向かった新政府軍には前もって通達がなされておらず、報告も行われていない抜け駆けに等しいものだった。この攻撃の原因を、板垣の慎重な指揮に対する反発と指摘する声もあるが、薩摩藩の独断専行は二本松藩、新政府軍の双方に影響を及ぼす。 本宮にあった二本松藩兵は糠沢を援護すべく兵を分け、本宮と糠沢を隔てていた阿武隈川を船で渡って向こう岸の高木に到着して糠沢へと向かわせようとする。しかしその二本松藩4小隊の進軍途中、本宮に向かっていた新政府軍の黒羽藩と遭遇、すぐに後続の新政府軍と抜け駆けしていた薩摩藩、土佐藩の部隊が殺到して二本松藩兵は撃破された。新政府軍はそのまま本宮の攻略に向かうが、高木と本宮の間は阿武隈川が隔てており、渡河のためには舟の確保が必要だった。新政府軍の先鋒となっていた黒羽藩兵と土佐藩兵は二本松藩の舟を奪取すべく河に飛び込み、狙撃によって、三春藩の恭順に功績のあった土佐藩断金隊の隊長・美正貫一郎が戦死するなどの被害を受けた。これに対し、地理に明るい三春藩、守山藩の先導により黒羽藩が舟を確保するまで新政府軍は大砲と銃火を厚くして援護を続ける。舟を手に入れた新政府軍は火力で制圧した後に敵前で渡河し、本宮になだれ込んで二本松藩兵を撃破してこれを占拠した。 糠沢、本宮が新政府軍の手に落ちたことによって、北の二本松城と南の郡山の中間点を抑えられ、郡山の旧幕府軍は孤立する形となった。守山、三春、白河といった郡山を囲む要所にも続々と新政府軍の増援が到着して旧幕府軍の動きが封じ込まれると、旧幕府軍の一部は黒羽藩領に放火といったゲリラ戦を仕掛けたが、新政府軍も真名子、虫笠といった村落に放火してその拠点を脅かして状況の打破には至らない。そのため28日、本宮を奪還すべく郡山から仙台藩兵を中心とする旧幕府軍が出陣する。この時、旧幕府軍は総司令官の坂英力ではなく浅川で指揮をとった塩森主悦が指揮をとった。 塩森は新政府軍の占拠する本宮は東を阿武隈川に接していたため、残る北、西、南の三方向からの包囲を企図した。しかし、総司令官が郡山に残るために動員できる兵力は総兵力の一部であり、北と西の部隊に兵力を割くことができなかった。そのため、包囲を果たすことはできず、かえって新政府軍に各個撃破されていった。旧幕府軍は各戦線で抵抗したがやがて個々に撤退して戦闘は終結する。この戦闘により新政府軍の死傷者は26名、旧幕府軍は仙台藩が51名、二本松藩で93名の死者を出した。
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