本宮村の戦いとは? わかりやすく解説

本宮村の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/27 16:55 UTC 版)

二本松の戦い」の記事における「本宮村の戦い」の解説

三春藩帰順先立つ20日新政府軍二本松藩攻略備えて三春藩の北12kmにある小浜長州藩兵3小隊占拠していた。本隊三春にあり、27日には平潟方面軍到着して合流を果たす。数を倍増させた新政府軍は、二本松領の糠沢三春北西30km)と本宮糠沢の西8km)に二本松藩兵士展開していることを知り大垣藩三春藩土佐藩黒羽藩らの諸隊をまず本宮に向かわせた。しかし、それらの諸藩とは別に薩摩藩3隊と土佐藩2小隊各自判断で既に動いており、深夜糠沢奇襲敢行して大勝し二本松藩26名を戦死させる。この薩摩藩奇襲は、本宮向かった新政府軍には前もって通達なされておらず、報告行われていない抜け駆け等しいものだった。この攻撃原因を、板垣慎重な指揮対す反発指摘する声もあるが、薩摩藩独断専行二本松藩新政府軍双方影響を及ぼす本宮にあった二本松藩兵は糠沢援護すべく兵を分け本宮糠沢隔てていた阿武隈川を船で渡って向こう岸高木到着して糠沢へと向かわせようとする。しかしその二本松藩4小隊進軍途中本宮向かっていた新政府軍黒羽藩遭遇、すぐに後続新政府軍抜け駆けしていた薩摩藩土佐藩部隊殺到して二本松藩兵は撃破された。新政府軍そのまま本宮攻略に向かうが、高木本宮の間は阿武隈川隔てており、渡河のためには舟の確保必要だった新政府軍先鋒となっていた黒羽藩兵と土佐藩兵は二本松藩の舟を奪取すべく河に飛び込み狙撃によって、三春藩恭順功績のあった土佐藩断金隊隊長美正貫一郎戦死するなどの被害受けた。これに対し地理明る三春藩守山藩先導により黒羽藩が舟を確保するまで新政府軍大砲銃火厚くして援護続ける。舟を手に入れた新政府軍火力制圧した後に敵前渡河し、本宮になだれ込んで二本松藩兵を撃破してこれを占拠した糠沢本宮新政府軍の手落ちたことによって、北の二本松城と南の郡山中間点を抑えられ郡山旧幕府軍は孤立するとなった守山三春白河といった郡山を囲む要所にも続々新政府軍増援到着して旧幕府軍の動き封じ込まれると、旧幕府軍の一部黒羽藩領に放火といったゲリラ戦仕掛けたが、新政府軍真名子笠といった村落放火してその拠点脅かして状況打破には至らない。そのため28日本宮奪還すべく郡山から仙台藩兵を中心とする旧幕府軍が出陣する。この時、旧幕府軍は総司令官坂英力ではなく浅川指揮をとった塩森主悦が指揮をとった。 塩森新政府軍占拠する本宮は東を阿武隈川接していたため、残る北、西、南の三方向からの包囲企図した。しかし、総司令官郡山に残るために動員できる兵力は総兵力一部であり、北と西の部隊兵力割くことができなかった。そのため、包囲を果たすことはできず、かえって新政府軍各個撃破されていった旧幕府軍は各戦線抵抗したがやがて個々撤退して戦闘終結する。この戦闘により新政府軍死傷者26名、旧幕府軍は仙台藩51名、二本松藩93名の死者出した

※この「本宮村の戦い」の解説は、「二本松の戦い」の解説の一部です。
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