箱館戦争と死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 07:57 UTC 版)
10月20日、蝦夷地鷲ノ木に上陸後、歳三は間道軍総督となり五稜郭へ向かった。新選組は総督大鳥圭介のもとで本道を進んだが、歳三には島田魁ら数名の新選組隊士が常に従っていたという。 箱館・五稜郭を占領後、歳三は額兵隊などを率いて松前へ進軍して松前城を陥落させ、残兵を江差まで追撃した。このとき、榎本武揚は土方軍を海から援護するため、軍艦「開陽丸」で江差沖へ向かったが、暴風雨に遭い座礁。江差に上陸して開陽丸の沈没していく姿を見守っていた榎本と歳三は、そばにあった松の木を叩いて嘆き合ったと言われ、今でもその「嘆きの松」が残っている。 江差を無事占領した歳三は、松前城へ一度戻り、12月15日に榎本が各国領事を招待して催した蝦夷地平定祝賀会に合わせて五稜郭へ凱旋した。 その後、幹部を決定する選挙が行われ、榎本を総裁とする「蝦夷共和国」(五稜郭が本陣)が成立し、歳三は幹部として陸軍奉行並となり、箱館市中取締や陸海軍裁判局頭取も兼ねた。箱館の地でも歳三は冷静だったという。箱館政府が樹立され、榎本らが祝杯を交わしている時も歳三は1人沈黙を保ち、「今は酒を飲み浮かれるときではない」と言っていたとされる。 1月から2月にかけては箱館・五稜郭の整備にあたり、3月には新政府軍襲来の情報が入ったため、歳三は新政府軍の甲鉄艦奪取を目的とした宮古湾海戦に参加。しかし作戦は不運続きで失敗。多数の死傷者が出るも、歳三は生還する。 明治2年(1869年)4月9日、新政府軍が蝦夷地乙部に上陸を開始。歳三は、二股口の戦いで新政府軍の進撃に対し徹底防戦する。その戦闘中に新政府軍は鈴を鳴らし、包囲したと思わせる戦術をとった。これに土方軍の将兵は動揺したが、歳三は「本当に包囲しようとするなら、音を隠し気づかれないようにする」と冷静に状況を判断し、部下を落ち着かせた。また、戦いの合間に、歳三は部下たちに自ら酒を振る舞って回った。そして「酔って軍律を乱してもらっては困るので皆一杯だけだ」と言ったため、部下は笑って了承したという。土方軍が死守していた二股口は連戦連勝したが、もう一方の松前口が破られ、包囲される危険性があった為、やむなく撤退、五稜郭へ帰還した。 明治2年(1869年)5月11日、新政府軍の箱館総攻撃が開始され、島田らが守備していた弁天台場が新政府軍に包囲され孤立、歳三は救出のためわずかな兵を率いて出陣。箱館港にて「蟠竜丸」が新政府軍艦「朝陽丸」を撃沈したのを見て「この機失するべからず」と大喝、箱館一本木関門にて陸軍奉行添役大野右仲に命じて敗走してくる味方を押し出し、「我この柵にありて、退く者を斬らん」と宣告した。歳三は一本木関門を守備し、七重浜より攻め来る新政府軍に応戦。馬上で指揮を執った。 最期については諸説あるが、歳三は乱戦の最中に腹部に被弾、落馬したとされる。彼の命令によって台場方面に進軍していた大野率いる兵士らは、一時勢力を盛り返していたが、必死の指揮も空しく総崩れとなった。大野がやむを得ず引き返したところ、同じく陸軍奉行添役の安富才助から歳三が撃たれたことを知らされたという。大野は急いで駆けつけたが、歳三は既に絶命していたとされる。 享年35(満34)。奇しくも盟友・近藤と同じ享年であった。榎本軍が降伏したのはその6日後のことだった。
※この「箱館戦争と死」の解説は、「土方歳三」の解説の一部です。
「箱館戦争と死」を含む「土方歳三」の記事については、「土方歳三」の概要を参照ください。
- 箱館戦争と死のページへのリンク