箱館奉行・松前奉行時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 19:38 UTC 版)
幕府が東蝦夷地を仮上知した寛政11年(1799年)1月、松平忠明(信濃守、中川久貞四男、松平忠学の父)・石川忠房・大河内政寿・三橋成方とともに蝦夷地取締御用掛に任命される。享和元年(1801年)、東蝦夷地を国後島まで巡視する。 享和2年(1802年)2月、新設された蝦夷奉行に就任、500石に加増される。同年12月、安芸守となる。箱館奉行は毎年春を境に1年毎、箱館在勤と江戸在勤を交代しており、文化元年(1804年)および文化3年(1806年)に箱館在勤となる。 文化2年(1805年)、現在の千歳川であるシコツ川を、当地に鶴が多かったことから「鶴は千年、亀は万年」にちなんで「千とせ(千年、千歳)川」と名付け、これが「千歳」の由来となる。 文化3年(1806年)10月4日の箱館大火に際しては、奉行自ら馬に乗り消火を指揮した。 文化3年(1806年)から文化4年(1807年)の文化露寇に際して、東北諸藩に動員をかける。文化4年10月、奉行所の松前移転に伴い、引き続き松前奉行に任じられる。 同年11月、文化露寇の責任を問われ、松前奉行を罷免。逼塞(文化5年(1808年)4月免ぜられる)および小普請組入りとなる。文化11年(1814年)没。墓は、東京都品川区南品川天妙国寺にある。
※この「箱館奉行・松前奉行時代」の解説は、「羽太正養」の解説の一部です。
「箱館奉行・松前奉行時代」を含む「羽太正養」の記事については、「羽太正養」の概要を参照ください。
- 箱館奉行・松前奉行時代のページへのリンク