箱館制圧とは? わかりやすく解説

箱館制圧

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 11:06 UTC 版)

箱館戦争」の記事における「箱館制圧」の解説

明治維新時には松前江差周辺松前藩領を除き蝦夷地大部分幕府直轄し、箱館奉行置かれていたが、新政府はこれに代わり箱館府設置した幕府直轄時代には奥羽諸藩蝦夷地に兵を派遣していたが、東北戦争に伴い悉く撤兵し、防備兵力僅かな箱館府兵と松前藩兵のみとなっていた。かかる中、榎本艦隊の北行判明したため、箱館府援軍要請、一番近い弘前藩から家老杉山成知以下4小隊10月19日秋田入港していた福山藩兵約700名および大野藩兵約170名が野田豁通率いられ10月20日箱館到着、これらで旧幕府軍を迎え撃つこととなった旧幕府軍は上陸後大鳥圭介率いる隊が峠下七重方面から、土方歳三率いる隊が鹿部・川汲峠を経て湯の川方面からと、二手分かれて箱館向けて進軍するが、無用な戦闘意図しておらず、まずは箱館府知事清水谷公考使者派遣した新政府への嘆願書たずさえ人見勝太郎本多幸七郎30名が先行するが、明治元年1868年10月22日夜、峠下宿営中、箱館府軍の奇襲を受け、戦端開かれる10月24日人見たちと合流した大鳥軍が大野村七重村箱館府軍を撃破し土方軍は川汲峠箱館府軍を敗走させた。各地敗戦受けて清水谷公考五稜郭放棄決め新政府軍25日秋田藩陽春丸チャーターしたプロシアのタイパンヨー号に乗船し青森退却した旧幕府軍は10月26日五稜郭無血入城し榎本艦隊箱館入港させた。旧幕府軍は上陸後5日箱館占領することに成功した。なお、10月27日旧幕府軍の箱館占領知らず入港してきた秋田藩軍艦高雄拿捕している。

※この「箱館制圧」の解説は、「箱館戦争」の解説の一部です。
「箱館制圧」を含む「箱館戦争」の記事については、「箱館戦争」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「箱館制圧」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「箱館制圧」の関連用語

箱館制圧のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



箱館制圧のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの箱館戦争 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS