榎本艦隊の北行とは? わかりやすく解説

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榎本艦隊の北行

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 11:06 UTC 版)

箱館戦争」の記事における「榎本艦隊の北行」の解説

榎本新政府への軍艦引渡し応じず、4月12日悪天候理由艦隊館山沖へ移動恭順派の勝海舟説得品川沖に戻り富士山丸観光丸朝陽丸翔鶴丸の4隻を新政府引渡すが、開陽など主力艦温存成功した7月榎本に対して仙台藩中心とする奥羽越列藩同盟から支援要請があり、8月20日開陽旗艦として8隻からなる旧幕府艦隊開陽蟠竜回天千代田形軍艦4隻と咸臨丸長鯨丸神速丸美賀保丸運送船4隻)が品川沖を脱走し仙台目指した。 この榎本艦隊には、若年寄永井尚志陸軍奉行並・松平太郎などの重役の他、大塚霍之丞丸毛利恒など彰義隊生き残り人見勝太郎伊庭八郎などの遊撃隊、そして、旧幕府軍事顧問団一員だったジュール・ブリュネアンドレ・カズヌーヴフランス軍人など、総勢2,000余名乗船していた。 榎本艦隊出航翌日から悪天候見舞われ離散し咸臨丸美賀保丸の2隻を失いながらも9月中頃までに仙台東名浜沖に集結した直ちに艦の修繕補給を行うとともに庄内藩支援のために千代田形陸兵100名を乗せた長崎丸を派遣した。しかしその頃には奥羽越列藩同盟崩壊しており、米沢藩仙台藩会津藩主だった藩が相次いで降伏庄内藩援軍到着する前に降伏し、これにより東北戦線は終結した榎本艦隊は、幕府仙台藩貸与していた運送船・太江丸鳳凰丸加え桑名藩主・松平定敬備中松山藩主・板倉勝静唐津藩世子小笠原長行歩兵奉行大鳥圭介、旧新選組副長土方歳三らと旧幕からなる伝習隊衝鋒隊仙台藩脱藩した額兵隊などの兵を収容榎本艦隊官軍仙台城入城受けて10月9日東名浜から牡鹿半島基部折浜現石巻市)に移動その際平潟総督四条隆謌宛て旧幕臣の救済のため蝦夷地開拓するという内容嘆願書提出する旧幕府軍は4,000あまりに膨れ上がったため、新政府軍は2,000名ほどの軍勢石巻向けて進軍させることとなった戦闘になることを恐れた仙台藩は、石巻豪商通じて榎本武揚大量兵糧物資提供し退去してもらうよう交渉した榎本はこれに応じ艦隊精兵2,000あまりを抽出乗船させ、10月12日折浜出航し宮古湾向かった取り残され旧幕府軍は四散したが、逃げ遅れた100名以上の兵が新政府軍捕縛され浜辺次々と斬首され、町に首が晒された。 石巻退去し榎本艦隊は、回天気仙沼幕府仙台藩貸与していた千秋丸を拿捕宮古湾補給10月18日蝦夷地に向け出港した箱館港には官軍防備があるため、危険を冒して敵前上陸行わず、まず安全な地点部隊上陸させれば兵力差のある新政府軍野戦撃破することは容易と考え箱館の北、内浦湾面する鷲ノ木上陸地点とし、10月21日グレゴリオ暦1868年12月4日)に約3,000名が上陸した

※この「榎本艦隊の北行」の解説は、「箱館戦争」の解説の一部です。
「榎本艦隊の北行」を含む「箱館戦争」の記事については、「箱館戦争」の概要を参照ください。

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