榎本艦隊起死回生の地
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/06 23:45 UTC 版)
幕末、江戸城開城の当日、榎本は新政府への軍艦の引渡しに応じず、悪天候を理由に艦隊を館山沖へ移動。当時の館山湾は日本有数の大艦隊が碇泊する港であったため、館山の地にて兵力を整え、軍艦8隻で函館に向かう準備を整える。(後の箱館戦争) 恭順派の勝海舟の説得で品川沖に戻り、富士山丸・観光丸・朝陽丸・翔鶴丸の4隻を新政府に引渡すが、開陽など主力艦の温存に成功した。7月、榎本に対して仙台藩を中心とする奥羽越列藩同盟から支援要請があり、8月20日、開陽を旗艦として8隻からなる旧幕府艦隊(開陽・蟠竜・回天・千代田形の軍艦4隻と咸臨丸・長鯨丸・神速丸・美賀保丸の運送船4隻)が品川沖を脱走し、仙台へと目指した。 この榎本艦隊には、若年寄・永井尚志、陸軍奉行並・松平太郎などの重役の他、大塚霍之丞や丸毛利恒など彰義隊の生き残りと人見勝太郎や伊庭八郎などの遊撃隊、そして、旧幕府軍事顧問団の一員だったジュール・ブリュネとアンドレ・カズヌーヴらフランス軍人など、総勢2,000余名が乗船していた。
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