新選組副長
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 07:57 UTC 版)
文久3年(1863年)に起きた八月十八日の政変後、壬生浪士組(正式な名称ではない)の活躍が認められて新選組が発足。その後、新見錦が切腹(最期については諸説あり)。芹沢鴨も土方らによると見られる暗殺で横死し、権力を握った近藤が局長となった。歳三は副長の地位に就き、近藤の右腕として京都の治安維持等にあたった。新選組は副長助勤、監察など職務ごとに系統的な組織作りがなされ、頂点は局長であるが、実際の指揮命令は副長の歳三から発したとされる。 元治元年(1864年)6月5日の池田屋事件の際は、半隊を率いて長州藩士・土佐藩士らが頻繁に出入りしていた丹虎(四国屋)方面を探索して回ったが、こちらは誰もいなかった。すぐさま池田屋の応援に駆けつけたが、ただちに突入せずに池田屋の周りを固めた。池田屋事件の恩賞は破格のものとなり、天下に新選組の勇名が轟いた。さらに幕府から、近藤を与力上席、隊士を与力とする内示があったが、その時は実現には至らなかった。 その後、副長の山南敬助を総長に据え、副長は土方1人となる。後に山南が脱隊して切腹となった事件では、土方との対立があったとされるが、「水の北 山の南や 春の月」の句を山南にあてたものとし、これには土方の好きな「春の月」が入っている為、山の南=山南とされて仲のよかったとする説もある。その後も隊の規律を守るために河合耆三郎、谷三十郎、武田観柳斎らを切腹あるいは斬殺させたとされる事もあるが、谷と武田に関しては死因の詳細は不明であり、隊規との関連性も判明していない。伊東甲子太郎が分離結成した御陵衛士に間者として斎藤一を送るなどして近藤暗殺計画を未然に防ぎ、伊東、藤堂平助を暗殺して御陵衛士を壊滅させた(油小路事件。御陵衛士および伊東、斎藤に関しては異説あり)。
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